第9回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1983年)
2021.02.01
週刊アサヒゴルフ1983年6月1日号より
中嶋が重信との38ホールを激闘制して初戴冠
決戦の舞台が、茨城・水戸GC(6090ヤード、パー72)に移った。前回までの戸塚CC西Cで4勝している青木が、大会連覇、5度目の優勝に注目が集まった。また、前年、初の賞金王に輝いた中嶋常幸(当時中島)との対決が期待された。コースが変わったことで、これまでとは違う戦いになることも予想された。日刊スポーツ紙によると、中嶋は「ロングホールはだれでもバーディーが狙えるから激しい戦いになる」と話している。
第1日は、1、2回戦(各18ホール)で行われた。青木は快調に勝ちあがった。1回戦で青木基正との「青木対決」を15、16番連続アップの4-2で制し、2回戦では藤木三郎に10番までに2アップしたが、藤木の11、12番連続バーディーでイーブンに。13番で青木は左の林に入れ、出すだけというピンチを迎えたが、第3打で奥3メートルにつけ、下りの難しいラインを沈めてパーで切り抜け、14番で藤木のボギーで再びアップして逃げ切った。「13番が入ったのは勝負の分かれ目だった。流れが変わったもんね」と、振り返っている。
中嶋は尾崎健夫との1回戦を4-3の大差で勝利して、2回戦ではベテランの井上幸一を対戦し、3-2と、楽々とベスト8に勝ち残った。前週のフジサンケイクラシックを体調不良で棄権して休養、10日間クラブを持っていなかったが「プロ野球の投手が5日も6日も休んで登板する意味がよくわかりましたと」と、日刊スポーツによるとご機嫌だったという。
2強のほか、中村通、重信秀人、泉川ピート、金井清一、謝敏男、森憲二が準々決勝にコマを進めた。
第2日は準々決勝(18ホール)が行われた。注目のマッチは、青木に挑む弟子の泉川。3年前の関東オープンで当時無名の泉川が青木に競りかけたのが縁で、青木門下に入った。「負けてもともと、青木さんに最終ホールまで連れていてくださいよと話しました」という泉川が、一歩も引かない。12番でイーブンに追いつき、14番で1アップと終盤は押し気味に試合を進めた。青木は最終18番パー5で第3打を20センチにつけて、第2打でバンカーに入れていた泉川にプレッシャーをかける。泉川の第3打は5メートルほどと寄らなかったが「攻めないと負けるから思い切り打てた。(青木さんが)2~3メートルだったら、引き分けていたかもしれない」(アサヒゴルフ誌)と打ったバーディーパットが決まり、1アップで師匠の連覇を阻んでみせた。握手を求めた青木は笑顔で「優勝しろよ」と肩をたたいた。
中嶋はこの日も好調。森に対して1アップで迎えた9番から3連続アップして突き放し、5-3の大差と、3試合連続で余裕の勝利を挙げた。「マッチプレーのコツが分かってきました」とアサヒゴルフ誌は伝える。「攻め方はストロークプレーと同じだけど、1打1打の意味が違う。今日はすべていい方に行った」と、日刊スポーツ紙ではこう話している。ベスト4にはほかに中村を下した重信、謝に競り勝った金井が進んだ。
第3日は準決勝(36ホール)。青木を下した泉川と対戦した重信は前半のインに入って猛攻。11,14番バーディーで取って2アップとした後、泉川のショットの乱れもあって16番から3連続で取り、5アップで折り返した。後半アウトは取ったり取られたりで、重信4アップでインに入り、10番で5アップとした。泉川は14、15番で取って意地を見せたが、そのまま3-2で重信が決勝に進んだ。
中嶋はベテラン金井を終始リード。前半を4アップで折り返し、後半もアウトで3つとって7アップまでリードを広げた。結局7-6の大差で勝利した。金井は序盤の戦いを振り返り「あれだけバーディーパットを入れまくった(4番から3連続バーディー)のにリードできなかった」と、同じくバーディーを入れ返した中嶋の強さに舌を巻いた。
同じ28歳、どちらが勝っても大会最年少優勝という対決となった決勝を前に、重信は前年賞金ランク28位で「ランク1位と28位ですからね。まともではだめでしょう。小股すくいでもやらんことには」と開き直った。中嶋は報道陣に翌日の天気を聞き、予報では天気が持つと知って「僕の好調さも持つかな」と、話している。
最終日の決勝(36ホール)は、まれにみる激闘になった。日刊スポーツ紙のホール詳報によると、「小股すくい」狙いの重信が、スタート1番で1メートルにつけ、2番では7メートルを入れる連続バーディーで2アップと先行する。中嶋も7、9番のパー5を取って追いつき、その後も一進一退の攻防が続いた。重信2アップで後半に入ると、中嶋が2番で8メートルを沈め、3番で重信のミスでイーブンに戻した。5番で重信、6番で中嶋が取った後、9番で中嶋が10メートルのバーディーを決めて、この試合初めてリードした。その後、引き分けが続いたが、18番パー5、重信が第3打をOKにつけるバーディーを奪って土壇場で追いつき、延長(エキストラホール)に突入した。
37ホール目の15番をパーで分けた後、38ホール目の16番パー5。右の林に入れた中嶋に対して、左の深いラフに打ち込んだ重信はミスを重ねて4オン、2メートルに。中嶋は林から出し、70センチに4オンした。先にパーパットを外した重信が見つめる中、中嶋はパーパットに「入れれば勝ちと思ったらものすごく長く見えた。もう手が思うように動かなくて」と、日刊スポーツ紙に振り返っている。ボールはカップをくるりと1回転、止まりかけたがポトリとカップに落ちた。中嶋は両手で頭を抱えて後ろにのけぞり、グリーンに倒れ込んでこちらも1回転。激闘を象徴するシーンだった。
重信は「すべてに中嶋プロの方が上。僕は持てる力を出し切ってもう何も残っていない。100%のゴルフができた」と、さばさばした表情だったという。近大を「1日通っただけ」でプロを目指して中退し、79年にプロ入り。デビュー戦の中四国オープンでいきなり優勝する史上初の快挙を達成した。この戦い後、ツアーの中堅プロとして長くプレーしている。
中嶋は「今日はチャンピオンが2人いた。重信君は僕を上回る内容だった」と、相手をたたえた。「この勝ちは本当に価値がある。開き直って打っていける自分の気持ちをしったのは素晴らしい。勝利の半分は彼(重信)のおかげ、お礼を言いたい」と、アサヒゴルフ誌は本人の弁で結んでいる。
日本タイトルは77年日本プロ、82年日本シリーズに続いて3つ目を手にした。この年、ツアー年間最多勝記録として今も残るツアー8勝を挙げて2年連続の賞金王も獲得。全盛期に入った。
プロフィル
中嶋常幸(なかじま・つねゆき)1954(昭和29)年10月20日生まれ群馬県出身。父・巌氏の英才教育で腕を上げ、1973年の日本アマを当時大会史上最年少の18歳で制する。プロ入り後もすぐに頭角を現し、77年に22歳で日本プロ優勝。82年に初の賞金王、83年には年間最多記録の8勝をマーク。85年には史上初の年間1億円プレーヤーとなるなどツアー48勝。 海外メジャーでも活躍、86年全英オープン最終日最終組で回る(最終8位)など、全米プロ3位はじめ、メジャー4大会すべてで10位以内に入っている。シニアでも2005年日本シニアオープン、06年日本プロシニアを制し、日本プロ、日本オープン、日本シリーズ、日本プロマッチプレーの6冠に加え、日本アマも含めて「日本タイトル7冠」の偉業を達成。17年にスポーツ功労者文部科学大臣顕彰、18年に日本プロゴルフ殿堂入り。