第8回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1982年)
2021.01.18
週刊アサヒゴルフ1982年6月2日号
「マッチの鬼」青木が新鋭羽川を下す連覇で4度目V
前年優勝の青木功、この年既に2勝を挙げて好調の中島常幸(現中嶋)に注目が集まった。戸塚CC西C(6443ヤード、パー72)で8回目の開催になったが、前7大会中、青木は3勝と得意としている競技形式、コースでもあった。第1日は32人が参加して、1、2回戦(各18ホール)が行われた。青木は1回戦で同年代の金井清一と対戦し、終盤粘れられたものの2-1で突破。2回戦ではこの年ここまで賞金ランク2位と好調の藤木三郎と対戦する。マッチプレーならではの駆け引きが展開されたのが藤木3ダウンの7番だった。日刊スポーツ紙によると、ともに1メートルほどのパーパットで、先に入れた藤木が青木にOKを出さずに「練習のつもりでどうぞ」。その作戦にも青木は動ぜず、その後もアップを続け、14番で勝負を決める5-4で快勝。藤木の作戦で逆に「これなら勝てる」と確信したという。
初出場の羽川豊が快進撃を展開した。1回戦で2年前の覇者安田春雄に17番で追いついてエキストラホールへ。19ホール目の10番で安田がボギーにして勝ち上がった。2回戦の相手は杉原輝雄。4,5番で取られて2ダウンを苦しい展開だったが、1つ取り返した後、後半に入って10、11番連続アップで逆転、2-1で準々決勝に進んだ。「安田さんに杉原さん、厳しいと思いました」といい「なるべくそばに寄らないように、知らんふりしていました」と笑った。
注目の中島は1回戦で草壁政治に2-1で苦杯を喫して早々に姿を消した。ベスト8には、青木、羽川のほか、湯原信光、謝敏男、宮本康弘、上原宏一、中村通に、ベテラン河野高明も名を連ねた。
第2日は準々決勝18ホール。青木は、若手で売り出し中の湯原との対戦となった。9番まで1ダウンと健闘していた湯原だったが、10番でOKが出なかった80センチほどのパーパットを外すミスに泣き、青木が3-2で貫録勝ちした。湯原は「まずかったですよねえ、あれは」と10番を振り返り、グリーン奥から5番アイアンでのアプローチでカップの縁まで寄せた青木は「(自分がグリーンを外して)湯原は安心したんで、3パットしたよ」と笑った。
42歳の河野が、上原を相手に会心のゴルフを展開した。前半で2アップし、後半も11,12番で取って余裕の逃げ切りへ。4-2で勝利してベスト4に進んだ。「ショットもパットもパーフェクト。巨人の中畑と同じ絶好調なんです」と、プロ野球選手になぞらえた。日刊スポーツによると、この日は長男の誕生日だったが「プレゼントは買わんが、勝利を土産にするからと言ってきたんだ」という。
旋風を起こしている羽川は、中村と対戦。いきなり2ダウンの羽川は3番で取り返し、6番で流れが変わった。パーオンの中村が1.5メートルのパーパットを残し、2メートルのパーパットを羽川が外した。外しても引き分けの中村がパーパットを1メートルオーバー、返しも外すまさかの4パットのダブルボギーとして羽川が追い着いた。そこから中村のパットが決まらなくなり、羽川が3-2で逆転勝ち。「心のリズムが平静でなくなった」という中村に対し、羽川は「地獄で仏に会ったみたいだった」と振り返っている。もう1試合の謝―宮本は最終18番でパーの謝がボギーの宮本を振り切った。
第3日、準決勝は36ホールの長丁場。青木―謝は、まず謝が4番で先にアップしたが、青木が反撃して前半18ホールを青木2アップで折り返した。後半も2つの差を挟んで取ったり取られたりの展開になった。謝は1ダウンの10番で木の後ろに打ち込むボギーで失い、追い上げムードに水を差して「不運だったけど、負ける時はそんなものかも。青木さんは大事なところでビシッと決めてきた」と、3-2で敗退した。
羽川は河野に前半2ダウンとリードされる。後半は1番でグリーンを外してパーを拾い、2番バーディーで1差。バンカーに入れた4番ではスタンスがバンカーの外ながらピンに寄せ、河野がボギーとして追いついた。そこからは羽川ペースで、3-2で勝利した。
決勝に向けて、青木は「明日は1アップぐらいのぎりぎりの勝負か、大差であっさりいっちゃうかの2つだよ」と予想。名だたるベテランを倒し、最後は青木に胸を借りる羽川は「青木さんは完璧だから逆転は出来ない。27ホールまで食らいついて、ラスト9ホールで一気に勝負できれば最高ですけど」と話している。
最終日の決勝36ホール、先手を取ったのは羽川だった。3番で青木のボギー、4番で1メートルのバーディーで2アップ。5番で青木が10メートルを入れて返したが、11,12番連続で羽川がアップし、羽川3アップで前半が終了した。40分の昼食、ここで流れが変わったと日刊スポーツ紙は伝える。青木は父・治作さんが差し入れた弁当を食べ、パッティング練習をする時間の余裕ができた。週刊アサヒゴルフ誌では「ボールが切れるのは弱いからだと思ったので、入る入らないは別として強く打つことだけ、ちょっと練習した」と振り返っている。
後半、羽川は1番で右の林に入れ、5番では3パットの2つのボギー。1差となった青木は6番で10メートルを入れてついに追いつく。奮起した羽川が7番で5メートルのパーパットを入れて、ボギーの青木にまた1アップ。激しい攻防が続いて、迎えた12番が分かれ目となった。青木が10メートル以上あるバーディーパットをまたも決めた。「いつ来るか、いつ来るかと思った。やられました」(羽川)「プロの勝負はバーディーのとりっこ。お金がかかったのは全然違う」(青木)と、週刊アサヒゴルフ誌で振り返っている。ここから4ホール連続で青木が取って3アップとなり、ドーミーホールの16番パー5で左の林に入れた羽川が4打目でもグリーンに届かず、3オンしていた青木にギブアップ。青木の5ホール連取、4-2で決着した。
大会連覇で、4度目のマッチプレー王者となった青木。「今までのオレは周囲の期待にそむいちゃいかんと、攻めるべきところで攻めきれず、安全運転しすぎた。今日の午後は持てる力をすべて出し切ったし、これで吹っ切れたような気がする」。日刊スポーツが伝える優勝のコメントだ。
言葉通りなのだろうか、翌1983年1月、ハワイアンオープン最終日18番で奇跡的なイーグルを決め、米ツアー初優勝を飾っている。(文責・赤坂厚)
プロフィル
青木功(あおき・いさお)1942(昭和17)年8月31日生まれ千葉県出身。中学卒業後、東京都民ゴルフ場に就職してゴルフの道へ。1964年にプロとなり、71年の関東プロで初優勝。国内では通算56勝(ツアー51勝)を挙げ、賞金王には5度輝いている。海外でも78年世界マッチプレー、83年ハワイアンオープン、87年コカ・コーラクラシックと、欧米豪の各ツアーで勝利を挙げた。シニア入り後は米チャンピオンズツアーで9勝している。2004年に世界殿堂入りし、08年には紫綬褒章を受章、13年に日本プロゴルフ殿堂入り、15年秋の叙勲で旭日小綬章受章。16年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長を務める。