第7回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1981年)
2021.01.04
「雨中の激闘をたたえ合う青木功(右)と長谷川勝治」(週刊アサヒゴルフ1981年6月3日号より)
8時間の激闘を制し、青木が3度目の優勝
青木功が日本男子初の米ツアー優勝を成し遂げたのが1983(昭和58)年のハワイアンオープンであることは広く知られている。その2年前、1981(昭和56)年にも青木はハワイアンオープンで3位という好成績を残している。勝つための下地は十分にあったわけだ。そして、この3位が青木のゴルフ人生の大きな転機になる。当時は年間獲得賞金が8000ドルに達すると米ツアーのライセンスを得ることが可能だった。ハワイアンオープンの3位で8000ドルを大きくクリアしていた青木は申請して米ツアーメンバーとなったのだ。この年は春先から日米を忙しく往復。日本では開幕戦の静岡オープンを制し、前人未踏の4年連続賞金王に向け好スタートを切っていた。
そして迎えた5月の日本プロマッチプレー。会場は例年通り、神奈川県の戸塚CC西C(6443m、パー72)である。
青木は前年こそ1回戦で敗れたが、その前の2年間はともに優勝。1978(昭和53)年には世界マッチプレーも制しており、優勝候補の大本命と目されていた。1回戦は難敵の中村通に4-3と快勝。2回戦は小林富士夫に18番まで粘られたが、一度もリードを許さず1アップで退けた。
一方で尾崎将司や中島常幸は1回戦で敗退。前年優勝の安田春雄は2回戦で姿を消した。
青木は準々決勝で高橋五月を4-3で下し、36ホールの準決勝はベテラン内田繁を7-6で圧倒。2年ぶり3度目の優勝に王手をかけた。
決勝の相手は長谷川勝治である。青木より4歳年下でこの時35歳。前年の静岡オープンで初優勝を飾ったばかりだった。マッチプレーは3度目だが、過去2度はともに1回戦で敗れていた。この年も初日(1、2回戦)で負けると決めてかかり、着替えの手持ちはなし。初日終了後、一度、千葉県の自宅に帰って出直してきていた。そんな長谷川が不動の大本命相手に大熱戦を繰り広げた。
決勝当日は冷たい雨が降り、5月とは思えないほどの寒さだった。36ホール勝負の前半、青木は最大3アップのリードを奪う。マッチの鬼の貫録で、そのまま押し切るかのような雰囲気だった。
しかし、ここから長谷川が驚異の粘りを見せる。ジリジリと盛り返し、後半の6番からは怒涛の3ホール連続奪取。逆に2アップとリードした。
大金星――そんな言葉が脳裏をよぎったからか、続く9番で長谷川の1m強のパーパットがカップに蹴られた。10番で青木がバーディー。またたく間に振り出しに戻った。
11番で長谷川がバーディーを奪い、再びリードする。15番で青木が追いつく。一進一退、勝負はどちらに転ぶか予測できない状況だった。
17番、青木がパーを逃した後、長谷川が1.5mのパーパットに臨んだ。決めれば残り1ホールで1アップ。俄然、有利な立場となる。だが、長谷川のパットはカップに届かなかった。
週刊アサヒゴルフには「これを入れれば勝てると思ったら、手が動かなくなってしまって、バックスウィングをしないで打っちゃった」という長谷川のコメントが掲載されている。ビッグタイトルの重圧が長谷川の体にのしかかっていたのだ。
18番はともにパー。決勝では初めてとなる延長に入った。延長1ホール目はともにパー。2ホール目の15番で長谷川がボギーを叩き、ついに決着がついた。
計38ホールの戦いは8時間にも及んだ。王者をあと一歩まで追い詰めた長谷川は「青木さんはうまい。いつもうまいとは思っていたけれど、今日ほどそのうまさを痛感したことはありませんよ」(週刊アサヒゴルフより)と、その壁の高さを実感していた。3度目のマッチプレー王者に輝いた青木は「今日の試合は良かった。お互いに自分はプロでという自覚を持ってぶつかり合って、プロらしさを思う存分見せていた」(週刊アサヒゴルフより)と互いの健闘を讃えた。
この試合の翌週、青木の姿は米ツアーにあった。8月には全米プロ4位、ワールドシリーズ3位と好成績を残し、世界の中での地位を固めていった。日本では4年連続賞金王を達成。まさに脂の乗り切った時期だったのである。
プロフィル
青木功(あおき・いさお)1942(昭和17)年8月31日生まれ千葉県出身。中学卒業後、東京都民ゴルフ場に就職してゴルフの道へ。1964年にプロとなり、71年の関東プロで初優勝。国内では通算56勝(ツアー51勝)を挙げ、賞金王には5度輝いている。海外でも78年世界マッチプレー、83年ハワイアンオープン、87年コカ・コーラクラシックと、欧米豪の各ツアーで勝利を挙げた。シニア入り後は米チャンピオンズツアーで9勝している。2004年に世界殿堂入りし、08年には紫綬褒章を受章、13年に日本プロゴルフ殿堂入り、15年秋の叙勲で旭日小綬章受章。16年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長を務める。