第5回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1979年)
2020.12.07
連覇を果たした青木のショット(週刊アサヒゴルフ1979年6月13日号より)
世界王者・青木が大会連覇
従来は初日、2日目に36ホールストロークプレーの予選を行ってマッチプレーに進む32人を絞っていたが、第5回を迎えた1979(昭和54)年は事前に東西で予選を行い、本戦は32人によるマッチプレーのみという競技方法となった。この大会、注目を一身に集めていたのが青木功である。前年の賞金王でディフェンディングチャンピオンということも理由だが、それだけではない。前年10月、イギリスのウェントワースクラブで行われた世界マッチプレーで世界の強豪を次々に撃破して頂点に立っていたからだ。
日本のみならず世界のマッチプレー王者として会場の戸塚CC西C(6443m、パー72)に戻ってきた青木だったが、1、2回戦を行った初日は苦戦を強いられた。天野勝との1回戦は序盤に2アップしながらショットが乱れて追いつかれ、18番までもつれこんでしまう。最後は相手のボギーで何とか勝利をつかんだ。
続く2回戦は関西のホープ・宮本康弘との対戦。ショットの調子は戻らず、ティーショットはことごとくフェアウエーを外れてしまう。バーディーは1個だけ。それでも小技で粘りまくり、2アップで迎えた17番で5mのボギーパットを沈めて2-1で振り切った。
尾崎将司は2回戦で敗退。青木のほか1回戦で中島常幸を破った尾崎直道らがベスト8に駒を進めた。
2日目は準々決勝の4マッチが行われた。青木の相手は宮本らとともに「関西四天王」と呼ばれていた中村通。第1回大会の3位決定戦で敗れた相手でもある。
ショットの調子は相変わらず戻らない。取って取られてを繰り返し、1ダウンで終盤を迎えた。16番、青木は5mのバーディーパットを決めてマッチイーブン。そして最終18番パー4で中村が2打目をバンカーに入れてボギーを叩き、薄氷を踏む思いで勝利を得た。「きのう、きょうと相手のミスで勝っているようなもんだよ」とぼやく青木。それでも要所をきっちりと抑えるゴルフは「マッチの鬼」そのものだった。
3日目の準決勝、青木のショットはようやく復調気配を示していた。島田幸作との戦いは交互にバーディーを奪い合う接戦となった。1アップで迎えた18番、外せばエキストラホールという4mのパーパットを沈めて難敵に競り勝ち、連覇に王手をかけた。
準決勝のもう一方は謝敏男が14番からの4ホール連続アップの猛攻で山本善隆に逆転勝ち。初の決勝進出を果たした。
すでに日本で数々の勝利を手にしていた謝だが、直近の2勝はともに青木を2位に従えてのものだった。1975(昭和50)年の関東プロは2日目まで快調に首位を走っていた青木を謝が3日目に1打逆転し、最終日はさらに突き離しての勝利。1978(昭和53)年の静岡オープンは2人が首位タイで最終日を迎えたが、青木が1番でダブルボギーを叩くなど序盤で崩れて謝の軍門に下っている。
そんな「青木キラー」ぶりが決勝でも発揮された。1番で青木が幸先よくバーディーを奪って1アップとしたが謝が3、5、7番を奪ってあっさり逆転したのだ。
10番で青木がこの日2個目のバーディーを決めてひとつ戻すが、13番で謝がバーディーを奪い、再び2アップとした。謝るにとって初めての「日本」と名のつくタイトル獲得が、現実味を帯びてきた。
14番、青木は長いパーパットを残した。外せば3ダウン。いよいよ苦しくなる。だが、これを沈めて抗った。このパットが、謝のゴルフを微妙に狂わせる結果となった。
15番、謝が1mのパーパットを外した。両者の差は「1」に縮まった。
16番は互いにパー。17番、190mのパー3、青木は3番アイアンで1.5mにつけるスーパーショットを放った。謝はバンカー。青木がバーディーパットを決め、ついに追いついた。
18番のパー4は右からの逆風だった。謝はスライスを打って風にぶつけていくつもりだった。しかし、ボールは逆に左に曲がり、林に打ち込んでしまった。
このホールはきっちりとパーで収めた青木が奪った。2ダウンから最後の4ホールで3つ取っての鮮やかな逆転勝ち。大会連覇、さらには世界マッチプレーを含めればマッチプレー大会3連勝という偉業を成し遂げた。
当時の週刊アサヒゴルフには両者の対照的なコメントが掲載されている。「勝っていたゲームを落とした」とは敗者である謝の言葉。ほんの少しのほころびが、あっという間に広がってしまうのがマッチプレーの怖さだ。
勝者の青木はこう語っている。「18番はスライスを打とうとしたと謝さんはいっていた。でも彼の持ち球はドローなんだ。それを忘れていた。それに、15番のパーパットは簡単に打ちすぎた。結局勝ちを急ぎすぎ。そのうち自分自身を見失ったのではないだろうか。相手のミスで勝たせてもらったよ」
2日目にも口にしていた「相手のミスで勝たせてもらった」のフレーズが目を引く。我慢に我慢を重ねられるからこそ相手の焦りを誘うのだ。相手が勝手に転んだのではなく、青木が転ばせたのである。これこそが「マッチの鬼」の真骨頂ではないだろうか。
プロフィル
青木功(あおき・いさお) 1942年(昭和17)8月31日生まれ千葉県出身。中学卒業後、東京都民ゴルフ場に就職してゴルフの道へ。1964年にプロとなり、71年の関東プロで初優勝。国内では通算56勝(ツアー51勝)を挙げ、賞金王には5度輝いている。海外でも78年世界マッチプレー、83年ハワイアンオープン、87年コカ・コーラクラシックと、欧米豪の各ツアーで勝利を挙げた。シニア入り後は米チャンピオンズツアーで9勝している。2004年に世界殿堂入りし、08年には紫綬褒章を受章、13年に日本プロゴルフ殿堂入り、15年秋の叙勲で旭日小綬章受章。16年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長を務める。