第4回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1978年)
2020.11.12
優勝カップを掲げる青木功(アサヒゴルフ1978年8月号より)
「マッチの鬼」誕生、青木功が初制覇
マッチプレーはだれが強いか、と聞かれたら、1980年前後は間違いなく「青木功」と答えが返ってくる。青木が初めてマッチプレー日本一に輝いたのが、この年の大会だった。神奈川・戸塚C西コース(6483ヤード、パー72)で行われた。第1、2日は36ホール・ストロークプレーによる予選が行われ、130人が出場、上位32人が決勝ラウンドのマッチプレーに進出した。メダリスト(1位)になったのは3アンダーの山本善隆。青木は1オーバーの6位で通過している。前年優勝の橘田規、尾崎将司、村上隆と強豪が通過できなかった。この結果から、マッチプレーの組み合わせが決まった。
大会第3日の1回戦(18ホール)、青木は2年前の覇者吉川一雄と対戦する。週刊アサヒゴルフ誌によると「相手は経験者だし、こっちは素人。見当もつかなかった」と振り返っている。その通り、11番までで吉川が3アップとリードした。12、13番で取り返した青木は、13番でマッチプレーならではの戦い方を見せる。先に打った吉川のバーディーパットが外れてカップのすぐ横に止まった。青木はそのボールをそのままにして2.5メートルのバーディーパットを打ち、吉川のボールに当ててカップインさせて、スクエアに戻した。その後エキストラホールに入り、19ホール目で振り切った。同誌によると「吉川選手を倒したことで『この先やれるな』と思った」と話している。同日に行われた2回戦(18ホール)では森憲二を3-2で破って準々決勝に進んだ。
2回戦での好勝負は、杉原輝雄とメダリスト山本の師弟対決。1回戦で杉原は井上幸一を5-3、山本は上野忠美を4-2と、ともに大差で勝ちあがってきた。10番で2アップとした山本だったが、さすがに「マムシ」と呼ばれた杉原も負けられない。16番3メートル、17番4メートルを入れて取り返した。勝負は最終18番にもつれ込んだが、山本が7メートルのバーディーパットを沈めて勝利した。報知新聞紙によると「先手必勝で先にアップしよう狙っていたら、2番で杉原さんがボギーにした。これで楽になった」と、スコアでは激戦だったが、山本に余裕があったことをうかがわせる。
大会第4日は準々決勝と準決勝(各18ホール)が行われた。準々決勝で小林富士夫を5-3の大差で下した青木は、山本に競り勝って上がってきた寺本一郎との準決勝。5番パー3で先に青木が15ヤードのチップインを決めると、寺本も同じような距離をチップインさせる粘りを発揮。7番で70センチにつけて寺本がリードすると、10番で青木が取り返し、11番で寺本が1.5メートルを入れると、12番で今度は青木が3メートルを入れる。寺本が先手を取るが青木が離れない、という展開は15番で初めて青木がリード。16番で50センチにつけて2アップとリードを広げた。ドーミーホールの17番パー3で、グリーン手前にショートした青木は、絶妙のアプローチでカップ手前5センチに寄せ、3メートルのバーディーパットを外した寺本を2-1で振り切り、決勝にコマを進めた。報知新聞紙によると「苦しいが、相手ももっと苦しいと言い聞かせながら回った。あすの決勝は精神力だけ」と話している。
もう一方の山で勝ち上がったのが、青木とプロ同期の竹安孝博。準々決勝で新井規矩雄を4-3の大差で下し、準決勝で同じ川奈育ちで3年先輩の石井裕士と対戦した竹安は、前半からリード、8番でOBを打った石井に3アップと、いい流れで後半へ。10番で2メートル、13番で10メートルのロングパットを決めてプレッシャーをかける。16番で石井がまたOBをたたくギブアップで4-2で決着した。アサヒゴルフ誌によると「勝とうなんて考えていなかった。石井さんは先輩なんですけど、自分のペースでやれました」とコメントしている。
既に4日間で6ラウンドを戦い、体力的にも厳しい最終日の決勝(18ホール)。青木は1番でいきなり見せる。手前10メートルのバーディーパットを「3パットしてもいい」と強く打ったのがフックラインを描いてカップイン。竹安は「あれでがっくり来た」と振り返るほどの強烈な一打に、3番でOBのギブアップ、6番で3パットと、調子が出ない前半となり、青木のペースに。青木は11番パー5で2オンのバーディーを奪って3アップとほぼ安全圏に。12番で落としたが、そのままドーミーホールの17番パー3へ。最後は勝負をあきらめた竹安が「17番まで連れてきてくれてありがとう」と青木に握手を求めたという。
ともに1964年のプロテストに合格した同期。最終ラウンドでは一緒にプレーしている。2歳年上の青木は14オーバーで合格ラインを1打上回るギリギリ合格に対して、竹安は2アンダーでトップ合格を果たしている。竹安は「できることなら5番までは静かに行きたかった。調子が上がってきたら食らいつく。みっともない試合にはしたくなかった」と話している。
日本プロに続く日本2冠目の青木。「くたびれた。この疲れは一生忘れたくない」といい「オレは開拓した。マッチプレーという、相手を目の前にした戦いに勝てることが分かった。これは今後のオレのゴルフに大きな栄養になると思う」と話している。
言葉通り、同じ年の世界マッチプレー選手権(英国)でマッチプレー世界一のタイトルを取る。日本マッチプレーは1982年までに4勝。「マッチの鬼」と称された。また、「目の前の相手」との戦いが、その後のストロークプレーでの試合に生かされたことは言うまでもない。
プロフィル
青木功(あおき・いさお) 1942年(昭和17)8月31日生まれ千葉県出身。中学卒業後、東京都民ゴルフ場に就職してゴルフの道へ。1964年にプロテスト合格。71年の関東プロで初優勝。国内では日本オープン2勝、日本プロ3勝など通算56勝(ツアー51勝)を挙げ、賞金王には5度輝いている。海外でも78年世界マッチプレー、83年ハワイアンオープン、87年コカ・コーラクラシックと、欧米豪の各ツアーで勝利を挙げた。シニア入り後は米チャンピオンズツアーで9勝している。2004年に世界殿堂入り、08年には紫綬褒章受章、13年に日本プロゴルフ殿堂入り、15年秋の叙勲で旭日小綬章受章。16年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長を務める。