第3回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1977年)
2020.11.02
優勝カップを掲げる橘田規(アサヒゴルフ1977年8月号より)
43歳の橘田規が復活Vで日本3冠を達成
1973(昭和48)年に賞金ランキングが整備されて以降、青木功、村上隆、尾崎将司の3人が上位を分ける年が続いていた。1976(昭和51)年は1位が青木、2位が村上、3位尾崎という順番。この年は22歳の中嶋常幸が初勝利を挙げるなど、新しい力も台頭してきた。一方で1960年代に圧倒的な存在感を誇っていた橘田規や杉本英世、河野高明といったビッグネームが衰え、世代交代が完了したことは明白だった。だが、そんな時代の流れに抗い、再び大舞台で輝いた選手がいた。1977(昭和52)年の日本プロマッチプレーを制した橘田である。
長く肝臓や胃腸の病に悩まされていた橘田だったが、治療の甲斐あって症状がやわらぎ、1977年開幕前にはトレーニングを積むことができた。橘田は1974(昭和49)年の中部オープン以来優勝から遠ざかり、前年も賞金ランキング27位と不本意な成績が続いていた。それが、オフのトレーニングの効果か、1977年は開幕1、2戦とも優勝を狙える位置で予選を通過。決勝ラウンドでは崩れたが復調の手ごたえは感じていた。
そして迎えたシーズン3戦目の日本プロマッチプレー。会場は神奈川県の戸塚CC西コース(6483メートル、パー72)である。マッチプレーに進める32人を決める36ホールストロークプレーの予選で43歳の橘田は3アンダー、141をマーク。同スコアで並んだ森憲二をプレーオフで下して予選1位のメダリストに輝いた。
この年は橘田以上の大ベテランが予選を突破して話題になった。56歳の小針春芳である。小針はパープレーの144で余裕の通過。マッチプレーでも1回戦で原孝男を破って貫録を示したが、2回戦で惜しくも敗れている。
さて橘田だが、3回目を迎えた本大会でマッチプレーに進むのは初めてのことだった。それでもマッチプレー時代の関西プロで1勝2位1回の好成績を残しており、日本プロでもマッチプレー時代最後の2年でともにベスト4まで進んでいる。経験は十分にあった。
1、2回戦を勝ち上がり、大会4日目は準々決勝、準決勝である。準々決勝で田中文雄を2&1で下し、準決勝の相手は青木。前年の賞金王でこの時34歳。脂の乗った、優勝候補筆頭である。
しかし、橘田は一歩も引かなかった。マッチイーブンで迎えた13番で先にバーディーを決めると、内側につけていた青木が1メートルを外してしまう。橘田1アップの17番で青木が痛恨のボギー。2&1で橘田が高い壁を打ち破った。当時のアサヒゴルフには「昨年までの橘田さんとはまるでちがう」という青木のコメントが掲載されている。
決勝は5月15日、相手は関西のホープ、26歳の中村通である。この日、コースのある横浜は激しい風雨に見舞われていた。気象庁のデータによれば最大瞬間風速は15.1メートルで1日の降雨量は54ミリにも達している。
悪天候であるがゆえに自分から崩れることがないよう慎重に粘りのプレーを続けようという思いが橘田の脳裏にあった。その思惑通り着実にパーを重ね、相手のミスを待った。中村がボギーを叩いた2番と5番をモノにして2アップ。優位に試合を進めた。
インに入って13番を落とすが、15番で中村がボギーとして再び2アップとする。分けても優勝のドーミーで迎えた17番で橘田がボギー。1アップで最終ホールという緊迫した状況の中、最後は下りの2メートルというしびれるパーパットを沈めて逃げ切った。バーディーはひとつもなかったが、最後の最後まで気持ちを切らさず、粘り抜いてつかんだ復活勝利。1960年代に日本プロと日本オープンをそれぞれ2度制している橘田にとってこれが3つ目の日本タイトルとなった。
予選から通じて5日間で7ラウンドを戦った43歳は心身ともに消耗が激しかったはず。アサヒゴルフに掲載されている「久しぶりに胃が痛くなりました」という橘田の言葉が厳しかった戦いを物語っていた。
プロフィル
橘田規(きった・ただし)1934~2003兵庫県出身。19歳でプロ入りし、23歳の時に関西プロで初優勝した。25歳で米国に留学し、帰国後は次々にタイトルを獲得。日本シリーズこそ2位が2度などタイトルに届かなかったが、日本3冠(日本プロ、日本オープン、日本プロマッチプレー)を達成した。ワールドカップ代表には1961年から5年連続で選出され、1970、71年には全英オープンにも出場している。2015年日本プロゴルフ殿堂入り。