第2回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1976年)
2020.10.19
ショットを打つ吉川一雄(右)を見守る新井規矩雄(写真はアサヒゴルフ1976年8月号より)
戸田藤一郎の弟子、吉川一雄が初の日本タイトル
神奈川・戸塚C西コース(6483ヤード、パー72)で行われた。予選は136人が出場し、36ホールストローク・プレーの上位32人が決勝ラウンドのマッチプレーに進出した。
大会2日目の予選最終ラウンドは激戦。予選順位で、マッチプレーの組み合わせが決定する。1位(メダリスト)は、通算3アンダーで並んだ内田繁と野口英雄がプレーオフで、内田となった。通算1オーバーまでの25人の進出が決まり、通算2オーバーで9人が並んで、2人を振り落とすプレーオフとなった。14、15、16番の3ホールで、3人ずつに分かれてスタート。3ホールを終えて、高井吉春が脱落した。5人があと1人を落とすために17番へ行き、増田光彦がダブルボギーで落選した。プレーオフに臨んだ中には尾崎将司が含まれており、32人でのマッチプレーの組み合わせが決まって、1回戦で青木功との「AO対決」が早々に実現することになった。
1回戦18ホール、注目の青木―尾崎は接戦となる。1番で尾崎が3メートルを入れて1アップすれば、青木は3番で4メートルを決めてイーブンに。尾崎が4、6番で取って2アップとリードを広げたが、9番でボギーをたたいて再び1アップに。後半はスクエアが続き、そのまま最終18番へ。青木のバーディーパットがカップに蹴られて、尾崎が1アップで勝ち上がった。日刊スポーツ紙によると「追ったり追われたりはきつい」と尾崎はコメントしている。
昼食をはさんで、同日に2回戦18ホール。尾崎は山田健一と対戦、アウトで3ダウンも、10、11番で取り返して12番、1メートルのバーディーパットをミスして追いつけなかったのが響き、山田が1アップで勝利した。メダリストの内田も島田幸作、安田春雄らとともに勝ち上がった。
大会4日目、準々決勝、準決勝が各18ホールで行われた。島田―安田は、島田1アップで迎えた16番パー5で、安田が2オンに成功して追いついた。続く17番パー3で島田が1.5メートルにつけるバーディーで再びリードし、18番も取って2アップで勝利した。吉川―鈴木規夫の対戦にもギャラリーが集まり、こちらも大接戦。吉川1アップで最終18番を迎え、鈴木が2メートルのバーディーチャンスだったが、グリーンエッジの吉川がチップインバーディーを決めて勝ちあがった。
最終日、18ホールで決勝、3位決定戦が行われた。3位決定戦では島田が内田を3-1で下した。
決勝は、吉川が1番でバーディー、2,3番では新井のボギーでスタートから3ホール連続アップして有利に試合を進めた。その後は、新井が5、10番、吉川が9、13番で取って吉川3アップのまま終盤へ。15番で新井がとって2アップになった吉川は、ここを取れば勝ちとなる17番パー3でピン手前15ヤードにオン。新井はグリーン手前に外し、チップインを狙って打ったがわずかにショートした。吉川はロングパットを30センチに寄せ、パーパットを沈めて2-1で決着。2代目のマッチプレー王者、本人にとっては初めての日本タイトル奪取になった。
吉川は戸田藤一郎の最後の門下生と言われていた。高校卒業後に師事し、1969年にプロテスト合格。尾崎将司と「同期」でもある。すぐに頭角を表して若手の関西四天王とも呼ばれた。師匠譲りのアイアンの切れのよさが、この大会随所で見せた。特に決勝では新井よりドライバー飛距離が劣るが、先にピンに絡めて行くことで、プレッシャーをかけた。
「出だしで楽になりました。10番で新井さんにいきなり長いパット(10メートル)を決められた。11番パー5で4オンのパーでしたけど、新井さんがバーディーパットを外してくれたので」と、日刊スポーツ紙に展開を振り返っている。「300万円(2位賞金)でも最高やと思っていたし、(優勝賞金600万円は)女房も喜ぶでしょう」と笑顔を見せた。
プロフィル
吉川一雄(よしかわ・かずお) 1946年(昭和21年)11月2日生まれ京都府出身。5歳からゴルフを始める。高校卒業後に、天才戸田藤一郎門下に入り、69年に23歳でプロテストに合格。72年美津濃トーナメント、関西オープンに勝ち、73年にはオールスターゴルフトーナメントを制した。中村通、山本善隆、宮本康弘と「関西四天王」とも呼ばれた。73年ツアー制施行以降はツアー2勝。