第13回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1987年)
2021.04.05
週刊アサヒゴルフ1987年6月2日号より
歴史に残る高橋勝成、尾崎将司の名勝負
マッチプレーという試合形式、得手不得手があるようだ。日本プロマッチプレーが始まって12年、青木功が4勝を挙げていた。そのほかにも優勝2回の中嶋常幸、1回の中村通、高橋勝成はじめ、1つ2つは勝つという上位の常連も多かった。その反対に苦手にしているのが尾崎将司。ここ出場6大会連続で1回戦敗退。まだベスト8以降に進んだことがない。本人も「苦手」と公言しているのだが、今回はそうも言っていられなかった。前2週連続優勝を果たし、この大会が日本選手初の3週連続優勝が懸かった大事な大会になった。
水戸GCでの大会。第1日は雨となり、1回戦(18ホール)16試合が行われた。杉原輝雄が腎のう胞による体調不良で欠場、繰り上げで急きょコース入りしたのが中村忠夫だった。自宅の金沢から着替え一組とグローブ3枚を入れた小さなスポーツバッグ1つで駆け付けた。出口栄太郎と対戦。悪条件の中でパーを積み重ね、崩れた出口に3-2で勝利。日刊スポーツ紙には、ずぶ濡れで「明日の着替えがない。帰って洗濯しないと」と話している。
注目の尾崎将は稲垣太成の粘りに苦しみながらも、2-1で8年ぶりに1回戦を突破した。「1回戦ぐらいは前にも勝ったことがある。相手のミス待っちプレーだな」と笑った。健夫、直道の弟2人は姿を消したが、青木、中嶋、高橋は順当に勝ち上がった。
第2日は2回戦と準々決勝(各18ホール)。「代打」中村忠が快進撃を続けた。
2回戦で鈴木弘一と取ったり取られたりのシーソーゲームを2-1で制して準々決勝へ。相手は中嶋。「勝つつもりなんてなかった。気楽なもんですよ」といいながらも、1ダウンの16番で追いつき、最終18番パー5。左に曲げてクリークに入れた中嶋は7メートルに4オンしたが、中村忠は3メートルにパーオンしており、勝負あり。「7番から4連続バーディーで攻めたが、そのうち2つが分け。直後の11番でバーディー奪い返すんだから、中村さんはただ者ではない」とは、中嶋の敗戦の弁だった。
2回戦を尾崎将と青木が勝ちあがった。2人が準々決勝を勝つと、準決勝で大会初のAO対決が実現する。好調の尾崎将は、準々決勝で山本善隆を3-2で下した。ホールアウトするなり、後ろで回る青木の様子を知りたくてクラブハウスの食堂へ。青木が謝敏男に15番で3ダウンの劣勢と知ってがっくり。青木敗退が決まり「やりたかったなあ」と引き揚げた。上がってきた青木は「あんちゃん(尾崎将)とやりたかったなあ」と、同じ言葉で申し訳なさそうに話したという。
中村忠、尾崎将、謝と、2年ぶり優勝を狙う高橋が藤木三郎に圧勝してベスト4に進出。尾崎将は11回目の出場で初めて準決勝を戦うことになった。
第3日、準決勝(36ホール)。尾崎将は、日本ツアーでただ1人3週連続優勝をしている謝と対戦した。午前はともに3ホールずつを取り合ってイーブンで終える。午後は謝が1アップでリードしていたが、12、13番連続ボギーをたたいてあっさりと逆転を許す。直後の14番。リードした尾崎将が右の林へ。出したが枝に当たって130ヤードの第3打を残し、しかも前に木。謝も2オンには失敗したが、グリーン手前に置いてパーセーブは堅い。ここで尾崎将は木の間を抜いて1.5メートルへ。謝はパーセーブしたが尾崎将も決めて、ピンチを分けで切り抜けた。「運がまだジャンボについている。ダメかなと思った」と謝。「14番が大きなキーポイントだったな」と尾崎将。そのまま1アップで逃げ切った。「チャンスを与えられたんだから、しっかりものにしなくちゃ」と、初体験の1日36ホールを終えた尾崎将は息をついた。
マッチ巧者の高橋と、快進撃の代打・中村忠の一戦は、中村忠が精彩を欠いた。前日まで好調のショットもパッティングも思うようにいかず、6-5で完敗。月刊アサヒゴルフ誌によると中村忠は「これが僕の本当の実力です。昨日までが出来過ぎ。第一、この試合は横綱と幕下が相撲をとるようなものです」とさばさばしていたという。2年ぶり優勝を目指す高橋は「前回の優勝では(決勝相手の)矢部さんのミスを期待するような気持ちがあった。今は違う。人ではなく、コースを相手にプレーできるようになった」と自信を見せた。
最終日、決勝36ホールは、史上まれにみる激闘になった。序盤、高橋が4、5番で連続アップして始まった。尾崎将は7、8、9番を取って逆転。その後は分けを重ねていく。16番パー5、尾崎将は第2打を花道まで運び、バーディーで2アップを広げる。しかし、17番で尾崎将がボギー。18番を迎える。尾崎将の第1打は右の林へ。フォアキャディーがOBを示す赤旗を振り、尾崎将は打ち直したがそれもOB。ここでギブアップした。しかし、最初の球がセーフだったことが判明した。競技委員は「暫定球を宣言していなかった」として、最初の球は放棄したとみなし、ギブアップが有効になった。イーブンで午前を終えた。
日刊スポーツ紙は「相手のパットをOKするとき以外、一切口をきかなかった2人が一度だけ、言葉を交わした」と伝えている。午後の1番で「ジャンボ、気を悪くしないで行きましょう」「あれはおれの負け。気にするな」。また2人にスイッチが入っていく。高橋が22ホール目4番でバーディー、6番で尾崎将が追い着く。その後だった。
27ホール目で互いにバーディー、28ホール目で高橋が7メートルを決めて互いにバーディー、30ホール目でも高橋は6メートルを沈めて両者バーディーで分けた。月刊アサヒゴルフ誌は「ジャンボも高橋も戦いながら寒気を感じていた。バーディーでも勝つことができないのだ」と、この時の雰囲気を表現している。
31ホール目、6メートルを入れた高橋がついに1アップ。尾崎将は33ホール目に2.5メートルを入れて追いつく。34ホール目は尾崎が2.5メートルを外すボギーで高橋が1アップ。ここからさらにヒートアップする。
土壇場の35ホール目、左の林に入れた高橋は「もう使わないから折れてもいい」と木の下から4番ウッドで打ち出し、シャフトが幹に当たって折れた。尾崎将は、外せば負けの7メートルのパーパットをねじ込んだ。執念のぶつかり合いで最終36ホール目18番パー5へ。尾崎将が第3打を5センチにつけるスーパーショットを見せて、2メートルのバーディーパットを外した高橋と最後で並んだ。
エキストラホールに突入。37ホール目の15番。3番ウッドでティーショットした高橋の球を見て尾崎将が驚く。「33ホール目で打ったディボット跡のすぐ左横にあった」。高橋のゲームメークの正確さに舌を巻いた。高橋は7番アイアンで2メートルに乗せる。尾崎将はサンドウエッジでその少し内側に止める。先に打った高橋が決めた。「右カップいっぱいを狙った」尾崎将のバーディーパットは思った以上に切れてカップ左を通過した。その瞬間、高橋は「そうか、終わったんだなと。ぼうっとした」(日刊スポーツ紙)と振り返る。
互いにふらふらと近寄り、尾崎将が先に右手を差し出して握手した。8時30分に始まった試合は、16時20分を回っていた。史上最長の熱戦に、約7000人のギャラリーの拍手はやまなかった。
尾崎将は「プロになって16年、初めて満足のいく負け方をした」といい、高橋は「一生の思い出になる試合になった。こんなゲームができたのは相手がジャンボだったからだと思う」。お互いに力を尽くしたことを認め合った。
高橋が着ていたベストの左脇の下に引きちぎられたような穴が開いていた。35ホール目17番で4番ウッドのシャフトが折れて飛んだ際に当たった場所だった。「全然気づいていなかった」と、高橋はつぶやいた。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
高橋勝成(たかはし・かつなり) 1950年(昭和25)年8月5日生まれ。北海道出身。野球をしていたが、15歳の時に肩を壊してゴルフへ。日大卒業後、1975年にプロ転向。76年韓国オープンで優勝した。レギュラーツアーでは83年北海道オープン、広島オープンに勝って芽を出した。日本プロマッチプレー2勝など通算10勝。2000年にシニア入りし、日本プロシニア、日本シニアオープンの公式戦2冠を獲得。シニアツアー11勝、00年から4年連続賞金王になっている。