第10回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1984年)
2021.02.15
日刊スポーツ昭和59年5月14日
マッチプレー巧者の中村が初の日本一
第10回、区切りの大会は波乱の幕開けになった。茨城・水戸GC(6111メートル、パー72)で行われた。杉原輝雄が肋骨不完全骨折で欠場し、出場は31人だった。第1日の1,2回戦(各18ホール)。1回戦で前年優勝の中嶋常幸(当時中島)は、ベテランの井上幸一と対戦。10、11番の連続バーディーで逆転して1アップした中嶋だったが、18番で追いつかれてエキストラホールへ。19ホール目、293メートルを短い10番パー4で井上が1メートルにつける会心のショットを放ち、前年覇者を振り切った。日刊スポーツ紙によると、中嶋は前年から日米ツアーを回っており、ほぼ休みなしの状態の上、大会前に野球のバットスイング100回などのトレーニングも行い、かなり疲れていたという。井上は「ラウンド中も(炎症止めの)スプレーをかけていた。体が痛そうだった。230メートルぐらいの僕よりドライバーが飛んでいなかった」と話し、中嶋は「井上さんに休みをもらった」とコメントしている。
「マッチの鬼」青木功は1回戦で草壁政治に3番からの3連続アップなどアウトを終えて3アップと快調だった。しかし、12番から草壁にお返しの3連続アップを奪われるなどで逆転され「13番がだめだった。バンカーに入れちゃったからな」と、短く敗戦を振り返った。1アップで勝った草壁は「前半で負けたと思ったけど、12番で僕がチップインをしてから青木さんはパターとアプローチを3つ続けてミスした。ちょっと信じられなかった」と振り返った。AN2強が1回戦で姿を消す波乱になった。
尾崎将司も1回戦で敗退しAONが全滅。倉本昌弘、羽川豊、湯原信光の若手3羽ガラスも初戦で敗れる中で、尾崎3兄弟の次男、尾崎健夫が健闘。1回戦水野和徳を4-2、2回戦出口栄太郎を2-1で、それぞれ下してベスト8に進んだ。前週フジサンケイクラシックを制した勢いを持ち込んだ形で「オレは今売り出し中。何としても“日本”と名の付くタイトルを取って、世間に自分の名前を出したい」という意気込みを、サンケイスポーツ紙は伝える。
第2日の3回戦(18ホール)。尾崎健の進撃は続いた。前年決勝で中嶋に敗れた重信秀人と対戦。重信も飛ばし屋の1人だが、尾崎健はさらに20メートル以上引き離すロングドライブを連発した。重信に1,2番でいきなり2ダウンとなる劣勢も、7番パー5(455メートル)でエッジまで運んでチップインのイーグルを奪うなど、6番からの3連続アップで逆転。終盤重信の粘りにあったが2-1で勝利した。「今の僕のショットをきっちり打っていれば絶対に負けるわけがないと、焦らなかった」(サンケイスポーツ紙)と、やはり勢いがあった。
井上が藤木三郎に10、11番連続アップで流れをつかんで4-3で勝ち、草壁は高橋勝成との取り合いを制して1アップと、ANを倒した1人がベスト4へ。もう1人、中村通は長谷川勝治とエキストラホールに突入。21ホール目で振り切って準決勝に進んだ。「今日負けたら面白くないからね」と、3試合連続1アップとフルに戦い、接戦の強さを見せた。
第3日、準決勝(36ホール)は、中村―草壁、尾崎健―井上の対戦になった。好調の尾崎健は、井上と大接戦となった。午前18ホールは尾崎健が6つ、井上が5つとり、尾崎健1アップで折り返した。午後、先手を取ったのが井上で7番パー5では井上が2オンするなど逆転、一時3アップとなった。そこから尾崎健も粘り、1ダウンの最終18番で追いついてエキストラホールへ。37ホール目、グリーンを外した井上が寄せてパーで上がった後、5メートルのバーディーパットの尾崎健は80センチほどショート。次へ進むと思われた直後、そのパーパットを外す痛恨の3パットで決着した。尾崎健は「自分じゃ信じられないぐらい抵抗したんだ。でも井上さんがそれ以上のゴルフをした」と振り返っている。
中村―草壁も熱戦。前半を中村が1アップで折り返し、後半は取ったり取られたりの展開に。34ホール目の16番パー5で、草壁の第1打が右へ。左からの風に押されて林に入った。OB杭の20センチほど外側に止まっていた。ダブルボギーとした草壁を、2アップになった中村がそのまま逃げ切って2-1で勝利した。「(草壁は)風に乗った不運なOB」と中村。草壁は「完全なミスショットだから仕方がない」と、握手を求めた。
井上は父清次が、当時マッチプレー方式だった1952年日本プロを制しており「親子2代のマッチプレー日本一」について聞かれ「カエルの子はカエルとみられがちなんですが、僕はマッチは嫌い。(中村は)同じタイプだけにやりにくい」と話している。中村はこの大会1977年に決勝で橘田規に敗れているが、8度目の出場で順位決定戦も含めてこの日の勝利で22勝9敗とマッチプレーを得意としている。決勝の相手の井上に「いややな、ホンマ。あの人は徹底的にしつこい人やから、いやや」と、サンケイスポーツ紙が決勝に臨む2人のコメントを伝える。
最終日、決勝36ホール。一進一退の展開から、まず中村が攻める。14番から3連続アップして抜け出した。しかし、井上も休憩を挟んで2つ取り返し、後半6番(24ホール目)までで中村が1アップとどちらに転ぶか分からなかった。25ホール目、流れを引き寄せたのは中村だった。7番パー5で2メートルのバーディーパットを「入れようという気持ちが強すぎて落ち着かなかった」と仕切り直しし、このパットを沈めた。8番で5メートルを入れ、9番パー5ではアプローチをOKにつけて3連続アップ。残り9ホールで4アップとして一気に井上を突き放した。ドーミーホールの33ホール目、15番で井上は先に3メートルのバーディーを沈めたが、中村が1.5メートルを入れ返し、4-3で決着した。決勝では最大差での勝利だった。
親子2代制覇がならなかった井上は「(突き放された)あの3ホールは全く覚えていない。疲れました」と振り返った。
初めての公式戦タイトルをとった中村は、ファンから胴上げで祝福された。「勝った瞬間は実感がわかず、意外と冷静だったんです。でも、ギャラリーの皆さんにつられて、僕も興奮しました」と、日刊スポーツ紙で勝った瞬間の気持ちを伝えている。前年未勝利に終わり、オフは仲間の山本善隆らと宮崎で2週間合宿をした。決勝前には欠場した師の杉原から「こんなチャンスはない。何も考えんで一生懸命やってこい」と励ましの電話をもらったという。
この優勝でツアー通算11勝となったが、日本タイトルは初めて。「もう少し時間がたてば、タイトルの重みが分かってくるはずです」と、神妙に話した。
プロフィル
中村通(なかむら・とおる)1950年(昭和25)年10月31日生まれ大阪府出身。中学卒業後、関西の名門茨木CCに入り、1968年に当時最年少の17歳でプロテストに一発合格。杉原輝雄門下に入り、ツアー制度が施行された1973年広島オープンで初優勝した。日本プロマッチプレーのほか、日本シリーズ2勝(84、86年)などツアー通算20勝を挙げている。