第1回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1975年)
2020.10.05
Vサインで初代チャンピオンの喜びを表す村上隆(週刊アサヒゴルフ1975.6.5号より)
初代マッチプレー王者は村上隆
マッチプレーはゴルフの原点といわれている。古(いにしえ)の英国ではプレーヤーたちが主にマッチプレーでゴルフを楽しんでいたからだ。日本では戦前に創設された日本プロと関東プロ、関西プロはストロークプレーの予選を勝ち上がった選手たちが1対1で競うトーナメント形式のマッチプレーで頂点を争っていた。だが、関東プロは1960(昭和35)年から、日本プロと関西プロは1961(昭和36)年からストロークプレーへと競技方法が変更され、日本のプロトーナメントからマッチプレーは一時、姿を消した。1975(昭和50)年、新たにマッチプレーを採用したトーナメントが始まった。日本プロゴルフマッチプレー選手権である。優勝者には長期シードが与えられるビッグトーナメントとして2003(平成15)年までの29年間、唯一無二の魅力を発信し続けた。
第1回大会の会場は神奈川県の戸塚カントリー倶楽部西コースだった。日本オープンをはじめ、数々のトーナメントを行ってきたコースで設計は名匠井上誠一。1982(昭和57)年までの8年間、このコースがマッチプレーの舞台となっている。
5月14、15日はストロークプレーの予選が行われた。今年(2020年)は新型コロナウイルスの影響で多くのトーナメントが中止となり、開催できたトーナメントも「無観客」となってしまったが、この大会も一般ギャラリー入場不可だった。観戦できたのは招待客と関係者だけ。トーナメントを行っていない東コースではメンバーがプレーしていたという。
参加136人が予選で32人に絞られる。カットラインの2オーバー、29位に11人が並んだ。勝ち残れるのは4人。この中には尾崎将司の名前もあった。勝負は3ホールの合計スコア。尾崎は3連続バーディーを決めて何とか面目を保った。
翌16日は1、2回戦が行われた。尾崎は1回戦で関水利晃を破ったが2回戦で鷹巣南雄に2アンド1で苦杯を喫し「1日2ラウンドはきつい」と口にしてコースを去った。前年は日本プロ、日本オープン、日本シリーズを制して史上初の同一年日本3冠を成し遂げた尾崎だったが新設の“日本タイトル”には手が届かなかった。
17日は準々決勝、準決勝。大会最多の4勝を挙げ、後に“マッチプレーの鬼”と呼ばれるようになる青木功は準決勝で村上隆に屈した。もうひとつの準決勝では10番を終えて中村通に3ダウンを喫していた鷹巣がそこから大逆転。幼馴染の青木を破った村上と初代王者を争うことになった。
この時点で通算15勝以上を挙げ、前年は賞金ランキング2位の村上に対して鷹巣は通算2勝。実績では上の村上が2、6番を奪って2アップと優位に立つ。だが、7番で村上がボギーを叩いてリードはひとつに。9番パー4、ティーショットを曲げた村上は10mのパーパットを残した。対する鷹巣は3mのバーディーチャンス。ゲームは振り出しに戻るかと思われた。だが、「入れなきゃ負け、思い切っていくしかない」と肚をくくった村上のパットがカップに転がり込んだ。これに気圧されたか、鷹巣のバーディーパットは決まらない。11番では村上が先に長いバーディーパットを沈め、絶好のチャンスにつけていた鷹巣が外す。村上のパッティングが冴えわたった。村上2アップで迎えた17番で鷹巣が意地を見せ、18番まで持ち込んだ。しかし、18番で鷹巣はティーショットを大きく曲げ、2打目は木の支柱に当たって後方に大きく跳ね返る大トラブルに。結局、4打目を終えた時点で潔くギブアップ。村上が初代王者に輝いた。
「パットの差が出た」と鷹巣は敗因を分析。村上も「9、11番のパットが入ってなかったら勝てていなかっただろう」と勝負どころで決めたパッティングをポイントに挙げた。「日本」と名のつくタイトルを手にしたのは初めて。「うれしさは格別」と喜びを表した。この後、村上は9月に日本オープン、10月に日本プロを制し、11月の日本シリーズでも優勝。前年の尾崎を上回る、空前絶後の同一年日本4冠を成し遂げるのである。
プロフィル
村上隆(むらかみ・たかし)1944年5月25日生まれ静岡県出身。ゴルフの盛んな川奈で生まれ、11歳からゴルフを始める。伊東中卒業後、川奈ホテルゴルフコースに入り、キャディーをしながら杉本英世に師事。64年プロ入り。67年グランドモナークで初優勝。75年には日本プロマッチプレー、日本プロ、日本オープン、日本シリーズと日本タイトル4冠を制覇した。国内通算21勝(うちツアー11勝)、海外1勝。2016年日本プロゴルフ殿堂入り。