第7回日本プロゴルフ選手権(1932年)
2018.11.06
優勝したモンテス(右)と2位の森岡(ゴルフドム1932年11月号=日本ゴルフ協会所蔵=より)
モンテスが大会史上初の外国人王者に輝く
1926(大正15)年に産声をあげた日本プロ。優勝者の顔ぶれは1931年までの6年間で宮本留吉と浅見緑蔵が2勝ずつ、中上数一、村木章が1勝というものだった。日本プロ創設の翌年に始まった日本オープンでも同時期に宮本と浅見が2勝。黎明期のタイトルは宮本、浅見の2人で分け合うような状況だった。この2人に優勝こそないものの両大会で2位が計4回という安田幸吉を加えた3人がトップグループとして認識されていた。その構図に大きなくさびを打ち込んだ選手が1932年の日本プロで出現した。フィリピンから来襲したラリー・モンテスである。
マニラGCでキャディーからプロゴルファーとなったモンテスは日本プロゴルフ協会30年史によるとこの時21歳。すでにフィリピンオープンで3勝を挙げるなど母国で実績を残していた。マニラは雨季が長く、その間はプレーできないことが多かったため、日本で活動をしようという考えで来日したようだ。モンテスは米国でボビー・ジョーンズの指導を受けるなどして高い技術を有しており、その実力を日本初見参でいかんなく発揮した。
会場は兵庫県の鳴尾GC(パー72)。10月3日に29選手が参加した36ホールストロークプレーの予選が行われた。モンテスは70、74の計144で回り、宮本留吉を2打抑えてトップ通過のメダリストに輝いた。
ゴルフ誌の『ゴルフドム』は「マッチの前に連日猪名川(編注:鳴尾GCのこと)を訪れコースに明るい森岡と共にラウンドしてまずコースに精通しようとしていたことによっても平凡な男ではないことは明らかである。午前に2アンダー、午後2オーバー、結局パーというスコアをリターンしてメダリストとなったのも決して偶然ではない。コースに対する研究心、自分の成績に対する検討心の薄いのは日本のプロの共通の弱点であるらしい」(一部現代語訳)とモンテスがいきなり好成績をあげた要因を分析している。
2日目は予選を通過した8選手によるマッチプレーの戦いである。モンテスは1回戦で上田悌三と対戦。1番こそダブルボギーを叩いて落としたが、以降は安定したプレーで逆転。4&2で上田を退けた。午後の2回戦は8月に関東プロを制して勢いに乗る中村兼吉を8&7で一蹴した。プレーした11ホールのスコアは6アンダー。当時としては驚異的なゴルフで圧倒した。
決勝の相手はモンテスの練習ラウンドに付き合った鳴尾GC所属の森岡二郎となった。森岡は1回戦で宮本留吉、2回戦では浅見緑蔵を下す金星を立て続けにあげていた。
36ホールの決勝はモンテスが前半から主導権を握った。オールスクエアで迎えた7番から4ホール連続で奪取。このリードが最後まで効いた。その後は一進一退の攻防が続き、後半の15番ホールで決着。モンテスが4&3で勝利をつかんだ。
日本デビュー戦での鮮やかな優勝。大会史上初の外国人Vを日本プロゴルフ協会30年史は「それまで宮本留吉・浅見緑蔵・安田幸吉の3人を中心に動いていた日本のプロゴルフ界に大きな衝撃を与えた」と記している。
モンテスはこの年の日本オープンで2位に入り、翌1933年は日本プロを連覇。日本で活動したのは2年間だけだったが、黎明期の日本プロゴルフ界に大きな足跡を残した。