第6回日本プロゴルフ選手権(1931年)
2016.04.04
優勝した浅見緑蔵(右)と2位の陳清水(日本プロゴルフ協会30年史より)
大会初のマッチプレーを制した浅見緑蔵
大会創設を主導し、第2回大会から主催を務めていた大阪毎日新聞(第1回大会は茨木、舞子、甲南、鳴尾の4クラブが主催、大阪毎日新聞が後援)に代わって1931(昭和6)年から日本ゴルフ協会(JGA)が主催となった。JGA主催はこの後しばらく続き、1957年に組織された日本プロゴルフ協会(PGA)が引き継いだ。JGAが大会を主催することになった経緯を日本プロゴルフ協会30年史は『もともと日本プロ選手権は、日本プロゴルフ協会が主催すべきであるが、JGAが主催した理由は、昭和6年当時、まだ、プロが独立できるまでに育っていなかったからである。そこでJGAが日本PGAを一時預かるかたちで、日本プロ選手権(プロ東西対抗をふくめ)を主催することにしたわけである』と記している。
また、日本ゴルフ協会70年史は1929年に安田幸吉、宮本留吉が日本人プロ初の海外遠征としてハワイアンオープンに参戦し、米国の強豪プロに交じって宮本13位、安田17位の好成績を残したことがひとつのきっかけになったとし、『「日本にプロゴルファーは生まれたが、まだアマチュアの赤星四郎、六郎兄弟の域にも達していないから」というJGA幹部の判断で、プロフェッショナルの選手権開催が先送りされてきた中で、ようやく日本のプロの技術の向上と選手権競技実施への気運を高めることとなった』と解説している。
さて、10月26日から千葉県の武蔵野CC藤ヶ谷コース(パー70)で行われた大会には前年の15人を大きく上回る28人のプロが参加した。主催の変更とともに試合形式も変更された。前年までは72ホールストロークプレーだったが、36ホールストロークプレーによる予選上位8人がマッチプレーでプロ日本一を争うこととなった。
雨の初日は浅見緑蔵と武蔵野CC所属の陳清水が148でメダリストを分けた。翌27日は1回戦と準決勝(18ホールマッチ)が行われ、浅見と陳が勝ち上がっていった。浅見は1回戦で平松勇を6&5で圧倒。準決勝では過去大会出場4回で2勝2位2回の宮本留吉を後半一気に突き放して5&3で撃破した。一方の陳は1回戦で安田幸吉と大激戦を演じ、延長の末、辛くも勝利を手にする。準決勝では小池国喜代を危なげなく3&2で下して決勝に進んだ。
28日に行われた決勝は36ホールマッチである。先手を奪ったのは陳。1番で浅見がボギーをたたき、パーの陳がまずリードを奪った。しかし、浅見は2番でバーディーを奪ってすぐに追いつく。4番では陳がダブルボギーと崩れて浅見の1アップ。7番で陳がバーディーとして再びタイとなった。
ここから浅見がスパートをかける。8、12、14番をバーディーで奪うなど着々とリードを広げていく。前半の18ホールを終えた時点で3アップ。後半に入っても差を広げ、6&5で圧勝した。
ゴルフ誌の「ゴルフドム」は『両君とも昨二十七日大物を倒しただけに幾分の疲労が見えた。こうなると最早技の競ひではなくむしろ体力の如何に依る』(一部現代語訳)と決勝戦を評している。また、この年に創刊されたゴルフ誌「ゴルフ」は観客の少なさを指摘し『アマチュアーのプレイヤーも、自分でゴルフをやるばかりでなく、もつと競技を観て貰ひたい。観ることが直接間接、プロ達の競技を刺戟し、技術を進歩させる動機にもなりはしないかと思ふ』(原文のまま)と感想を述べている。
浅見は兵役があったため日本プロには3年ぶりの出場だった。前回出場した1928年は優勝しており、「出場2大会連続優勝」という形となった。また、浅見はこの年の8月には創設されたばかりの関東プロで優勝。11月には日本オープンも制し、3冠を達成している。
プロフィル
浅見緑蔵(あさみ・ろくぞう) 1908~1984東京都出身。子供のころに東京GC駒沢Cでキャディーを始め、18歳の時、程ヶ谷CCでプロとなる。2年後の1928年に日本オープンと日本プロで最年少優勝。兵役を経て31年には日本プロ、日本オープン、関東プロの公式戦3冠を達成した。同年には宮本留吉、安田幸吉とともに初の米国本土遠征メンバーに選ばれている。また、日本プロゴルフ協会設立(57年)に尽力し、63年からは同協会の第2代理事長(現会長職)を務めた。主な戦績は日本プロ、日本オープン、関東プロ各2勝。