第5回日本プロゴルフ選手権(1930年)
2014.10.06
1930年10月20日付大阪毎日新聞
今なお残る大記録、村木章が19打差の歴史的勝利
日本にプロのトーナメントが誕生して5年が経ち、選手の勢力図が徐々に明確になっていた。一歩抜きん出ていたのが宮本留吉だ。日本プロでは1926(大正15)年の第1回大会、29(昭和4)年の第4回大会で優勝し、第2回、第3回大会は2位。日本オープンと関西オープンでも勝ち星を挙げていた。浅見緑蔵は28年に日本プロ、日本オープンの両大会を制して存在感を示し、安田幸吉は優勝こそないものの日本オープンで2位2回、日本プロで2位1回と着実に上位に入っていた。30年の日本プロは、この当時の実力者3人が不在という異例の大会だった。浅見は兵役中であり、宮本と安田は日本ゴルフ協会の要請で米国人アマチュアとの親善試合に出場していたのだ。浅見の兵役はともかく、宮本と安田は今では考えられないような理由で欠場せざるを得なかったのである。 会場は宝塚GC。競技方法は1日36ホールの2日間計72ホールで争うストロークプレーだった。
初日(10月18日)、宝塚所属の村木章が地の利を生かして飛び出した。第1ラウンドではただ1人の70台となる74をマークしていきなり2位に7打差をつける。続く第2ラウンドは79にまとめて、差を8打に広げた。
秋晴れの最終日(19日)も村木は他を寄せつけない安定したプレーを続ける。午前の第3ラウンドを76とし、午後の最終ラウンドは75。最終ラウンドでは10番から3連続バーディーを奪う見せ場をつくっている。
終わってみれば2位の越道政吉、陳清水との差は何と19ストローク。宮本ら強豪が不在だったとはいえ、見事な勝ちっぷりだった。
翌週開催された日本オープンで宮本が奇しくも同じく19打差で勝利を飾っている。両者の19打差は今もなお日本のプロトーナメント史上最多差優勝である。
村木は日本人プロゴルファー第1号の福井覚治の甥にあたる。福井の姉・のぶの息子として生を受けたのだ。そして、伴侶は福井の長女・敏子。いとこ同士の結婚だった。
この年の4月、福井は鬼籍に入っている。村木にとっては手向けの優勝でもあったわけだ。
プロフィル
村木章(むらき・あきら)1908~1985日本のプロ第1号である福井覚治の実姉の長男として生まれた。夫人は福井の長女。いとこ同士の結婚だった。福井に鍛えられて腕を上げ、1930年日本プロで初優勝。37年には関西プロと関西オープンを制している。
第5回日本プロゴルフ選手権成績
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 村木章 | 304 | = 74 79 76 75 |
2 T | 越道政吉 陳清水 |
323 | = 81 80 78 84 = 80 84 79 80 |
4 | 柏木健一 | 326 | = 82 84 78 82 |
5 | 石角武夫 | 335 | = 84 80 84 87 |
6 | 森岡二郎 | 336 | = 89 83 78 86 |
7 | 上田悌造 | 337 | = 85 84 83 85 |
8 | 三野 | 343 | = 87 93 78 85 |
9 | 寺本善吉 | 346 | = 85 87 87 87 |
10 | 大木鏡三 | 351 | = 93 86 84 88 |