第4回日本プロゴルフ選手権(1929年)
2015.10.05
六実リンクスの風景。右端のパッティングしている選手が宮本留吉(ゴルフドムより)
大会初のパープレーで決めた大差V
第1回大会から36ホールストロークプレーで行われていた日本プロは1929(昭和4)年の第4回大会から72ホールストロークプレー(2日間競技)へと競技方法を変更した。会場は千葉県の六実リンクス。初の関東開催となった。六実リンクスは戦時中に閉鎖され、現存しない。東京都内にあった武蔵野CCが会員増加などによって手狭になったために千葉県松戸市に移転してつくったコースだった。設計は大谷光明。18ホールが完成したのは1927年だった。コース名の表記については諸説あるが、大会主催の東京日日新聞、ゴルフ専門誌のゴルフドムともに「六実リンクス」(実際の紙面では実は旧字の實)としているため、それに準じた。ゴルフドムによると総ヤーデージは6475ヤード、パーはアウト35、イン37の計72である。
大会初日は7月20日。複葉機から紅白のリボンを結んだ10個のゴルフボールを投下するという派手な始球式を行った。
出場選手は10人。前年優勝の浅見緑蔵は兵役のため欠場した。
午前9時15分から10人の選手たちは2人1組となり、5分間隔でスタートしていった。
最初の9ホールで安田幸吉が34の好スコアを出すが、インで43と崩れて77。午後の18ホールは78で初日のトータルは155となった。過去3回の優勝スコアは161、153、156。会場こそ違うが、安田の155は優勝者に匹敵するようなスコアだった。しかし、そのはるかに上をいくプレーヤーがいた。宮本留吉だ。
宮本は午前の18ホールを3バーディー、2ボギー、1ダブルボギーの73で大会最少ストロークを樹立。午後の18ホールも74にまとめて計147。安田に8打もの大差をつけた。
宮本は6月の日本オープンを298で制している。国内プロトーナメント史上、初の300切りの快挙だった。今回はさらにそれを塗り替えるペース。最終日は記録への期待もかかった。
夜降っていた雨は上がり、最終日は晴天に恵まれた。ゴルフドムは「フェアウエーもグリーンも快いうるおいを見せコンディション申し分なし。優勝候補に目された宮本には人気最も集まりギャラリーも多くついた」(抜粋。一部現代語訳)と報じている。
第3ラウンド、宮本は2、3番をボギーとすると5番パー5で林に入れて8を叩いてしまう。アウトは44。インは38にまとめたが、82と崩れ、記録更新は厳しくなった。それでも2位とは6打差。3年ぶりの優勝がグッと近づいた。
続く最終ラウンド、宮本は一転して素晴らしいプレーを見せる。最終ホールをボギーとしたが、3バーディー、3ボギーの72で回ってみせた。初日に自らが記録した大会最少ストロークをさらに更新する快心のプレー。大会史上初のパープレーラウンドで2位の安田には11打もの差をつけて優勝した。
宮本は第1回大会優勝後、第2回はプレーオフ負け、第3回大会は1打差2位と惜敗が続いたが、これで溜飲を下げた。前年の浅見に続く日本オープンとの2冠も達成。名実ともに第一人者の座に就いた。
プロフィル
宮本留吉(みやもと・とめきち)1902~1985兵庫県出身。小学生のころに神戸GC(兵庫県)でキャディーとして働きながらゴルフを覚えた。1925年に茨木CC(大阪府)でプロとなる。日本プロは第1回大会を含めて通算4勝、日本オープンは大会最多の6勝を挙げている。また、海外遠征の先駆者として道を拓き、32年の全英オープンで日本人選手初のメジャー出場を果たしている。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第4回日本プロゴルフ選手権成績
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 宮本 留吉 | 301 | = 73 74 82 72 |
2 | 安田 幸吉 | 312 | = 77 78 80 77 |
3 | 岩倉 末吉 | 320 | = 78 79 81 82 |
4 | 石角 武夫 | 322 | = 80 81 79 82 |
5 | 平松 勇 | 326 | = 78 78 84 86 |
6 | 瀬戸島 達雄 | 331 | = 86 81 79 85 |
7 | 小杉 広蔵 | 335 | = 85 84 83 83 |
8 | 村木 章 | 336 | = 87 81 82 86 |
9 | 天利 幸一 | 365 | = 96 92 87 90 |
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