第35回日本プロゴルフ選手権(1967年)
2017.09.04
1967年9月5日付スポーツニッポン
鮮やかな逆転劇で宮本省三が初のプロ日本一に
愛知県にある三好CCは1961(昭和36)年開場のコースである。ゴルフファンには男子ツアー東海クラシックの会場としてなじみのある場所だろう。設計はジョー・アーネスト・クレーン。日本で指折りの歴史がある鳴尾GC(兵庫県)の黎明期に重要な役割を果たしたクレーン3兄弟の1人で、コース設計者としても名を馳せた人物である。
三好CCでは開場2年後の1963年と翌64年に中日クラウンズを開催し、1965年には日本オープンも行われている。開場早々からビッグトーナメントの舞台に次々に選ばれていたわけだ。
1967年には日本プロも開催された。コースセッティングは7070ヤード、パー72。タフな数字である。
大会初日は9月1日だった。雨の中、18ホールを回り終えた選手もいたが途中で雨が激しくなってプレーが難しくなったために中止が決定。翌日、ゼロからの仕切り直しとなった。
翌日も途中まで雨が残ったが無事に全選手がホールアウト。5アンダー、67の好スコアをマークして首位に立ったのは地元愛知県の春日井CC所属・内田繁と51歳の大ベテラン・中村寅吉だった。中村はスタートホールの1番パー4の2打目を放り込んでイーグルを奪った勢いを18ホール持続させた。
翌日の第2ラウンドは首位発進の2人の明暗が分かれた。内田は快調なゴルフで68をマーク。通算9アンダーで単独首位とした。一方の中村はOBが出るなど76と崩れ、18位に後退した。
1打差の2位はコースレコードタイの65を出した山口征二。さらに1打差で2年前に三好CCで日本オープンを制した橘田規が追う。この大会の主役である宮本省三は河野高明らとともに5打差の5位につけていた。
最終日は36ホール勝負である。前半の18ホールを終え、橘田と石井朝夫が9アンダーで首位、内田、宮本、山口、そして杉原輝雄が1打差で追う展開となった。
最終ラウンド序盤、橘田と石井が11アンダーにスコアを伸ばす。一歩下がった位置で自分のゴルフをしていた宮本のエンジンがかかったのが8番パー3だ。距離のあるこのホール、ボギーとする選手が多い中、宮本は3番アイアンで2mにつけてバーディー奪取。続く9番もバーディーとして先頭グループに追いついた。
15番パー5、宮本の2打目はグリーン手前のバンカーにつかまったかに見えたが、うまく転がり出て2オン成功。2パットでバーディーを奪い、12アンダーでついに単独首位に出た。続く16番パー3、石井が8mのバーディーパットを外した後、ほぼ同じ位置から宮本が決める。2位の石井に2打差をつけた。
宮本は17番をボギーとしたが、石井を1打差抑えて栄冠をつかんだ。この時27歳。すでに関西プロと関西オープンを制していた関西のホープが初めて日本と名のつくビッグタイトルを手に入れた。
「16番のパットですか? あれはまぐれです。しかしうれしかったね。あの13アンダーで勝てると思いました」(スポーツニッポン紙より)と鮮やかな逆転劇を振り返った宮本。中学卒業後に近所の茨木CC(大阪府)に就職し、叩き上げでプロとなった男が日本一に上り詰めた。
茨木CCの先輩である杉原が「あんな練習の虫はほかにいない。宮本の優勝は“努力”の二字につきるでしょう」(スポーツニッポン紙より)と宮本を讃える。杉原にそう言わしめるほどの練習量がもたらした大きな優勝だった。
プロフィル
宮本省三(みやもと・しょうぞう)1940~大阪府出身。茨木CCで修業し、1961年にプロ入り。翌62年の関西プロで初優勝を飾った。レギュラー時代は66年関西オープン、67年日本プロなど計7勝。シニアでは90年関西プロシニアなど3勝を挙げている。
第35回日本プロゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 宮本 省三 | 276 | = 70 70 68 68 |
2 | 石井 朝夫 | 277 | = 73 66 68 70 |
3 T | 細石 憲二 杉原 輝雄 山口 征二 |
278 | = 70 70 69 69 = 70 71 67 70 = 71 65 72 70 |
6 | 橘田 規 | 279 | = 70 67 70 72 |
7 T | 松田 司郎 内田 繁 陳 清波 |
281 | = 71 73 68 69 = 67 68 73 73 = 73 69 68 71 |
10 | 石井 迪夫 | 282 | = 73 68 68 73 |