第34回日本プロゴルフ選手権(1966年)
記録的な大逆転で河野光隆が大会連覇
日本プロにおける最大の逆転劇は2013(平成25)年に起こった9打差逆転である。首位の松山英樹から9打差の17位にいた金亨成が最終日に65を叩き出し、75と崩れた松山を抜き去った。この9打差は男子ツアーにおける最大差逆転タイ記録でもある。
この9打差逆転に負けないくらい衝撃的な逆転劇を成し遂げた選手がいる。1966(昭和41)年の河野光隆だ。
河野は前年の日本プロチャンピオン。この年は年頭に米国のトーナメント2試合に出場し、サンディエゴオープンでは予選通過を果たしている。ただ、まだ24歳の若手であり、優勝は前年の日本プロ1回のみ。さらに、この年は目立った成績を残していなかったから前評判は決して高くなかった。スポーツニッポン紙の事前記事では名前すら挙がっていないほどである。
大会会場の総武CC(6960ヤード、パー72)は2年前にオープンしたばかりのコース。大きなトーナメントを行うのは初めてだった。
初日、河野は前評判を覆すかのように14番から上がり5ホール連続バーディーの爆発力で6アンダー、66をマーク。橘田規、栗原甲子男、内田繁とともに首位に立った。
だが、2日目は73と失速。首位の内田から7打差の16位にまで後退してしまった。報知新聞社発行のゴルフ誌『ゴルフ』は「ボクのゴルフはひとつでもバーディーが出だすと、調子にのって、どんどん行くんですよ。だけど、パットが入らなくなるとすぐ頭に来てしまって……」という河野のコメントを掲載している。粗削りで波が大きいのが当時の河野のゴルフだったわけだ。
36ホールをプレーする最終日、前半の18ホールで河野は4アンダー、68で回った。通算9アンダー。いい波が来ていた。しかし、首位の内田も68をマークして通算16アンダー。河野は順位こそ6位に浮上したが差は7打のまま変わらなかった。内田は2位に5打差。独走態勢を築きつつあった。
だが、第3ラウンドで調子の波に乗りかかっていた河野が最終ラウンドで大きな波をつかまえる。1番で10mもの距離を入れてバーディー。グッと気持ちが前向きになった。2、6番でもバーディーを奪ってアウトを3アンダーの33で折り返した。インではショットが冴えわたり、毎ホールのようにバーディーチャンスを迎える。10、12、13、14、17番でそのチャンスをモノにして一気に通算17アンダーとした。
河野が強烈なラストスパートをかけているころ、内田は苦戦していた。第3ラウンドまでの好調ぶりは影を潜め、最終ラウンドは74と崩れた。
鮮やかすぎる逆転劇で大会2連覇。通算17アンダーは前年のこの大会で自らが記録した15アンダーを更新する当時の国内トーナメント最多アンダー記録となった。
「せいぜい5、6位に入れれば……と思っていました」(スポーツニッポン紙より)と控えめに口を開いた河野。17番をプレーしている時に自分がリードしていることを知り、そこで初めて「いける」と思ったという。
前年、河野は優勝副賞でオートバイを手にしていた。この年の優勝副賞は自動車にグレードアップしていた。「だからなんとか取ってやろうとひそかにねらってはいたんです」(スポーツニッポン紙より)と本音もチラリと見せた河野は後日、2度目の日本開催となるカナダカップの代表に初選出され、名実ともに日本を代表する選手として認知された。
プロフィル
河野光隆(こうの・みつたか)1941~
神奈川県出身。程ヶ谷中学卒業後に程ヶ谷CCのキャディーとなり、やがてプロを目指す。1963年にプロ入会。1965年の日本プロが初優勝だった。日本プロは翌1966年にも優勝。ほかに読売国際オープン(1967年)、チャンピオンズトーナメント(1969年)などに優勝している。1966、67年にはワールドカップ代表にも選ばれた。河野高明は兄。
第34回日本プロゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 河野 光隆 | 271 | = 66 73 68 64 |
2 | 内田 繁 | 274 | = 66 66 68 74 |
3 | 細石 憲二 | 275 | = 70 68 67 70 |
4 T | 佐藤 精一 村上 隆 |
276 | = 69 72 68 67 = 69 66 71 70 |
6 T | 杉本 英世 橘田 規 |
278 | = 70 68 70 70 = 66 69 72 71 |
8 T | 原 政雄 小野 光一 栗原 甲子男 北野 真司 |
279 | = 73 69 67 70 = 68 69 69 73 = 66 71 72 70 = 67 70 71 71 |