第33回日本プロゴルフ選手権(1965年)
2016.05.23
副賞のバイクにまたがりカップを掲げる河野光隆(日本プロゴルフ協会50年史より)
初の有料試合を制したのは23歳の新星
プロスポーツは興行である。観客は入場料を払ってプロの迫力や技を目の当たりにし、感動や満足感を胸に刻む。多くのプロスポーツにとって入場料は収入の大きな柱だ。だが、ゴルフの世界では長い間、入場料というものは存在しなかった。ギャラリーが少なかったこともあるが、無料で観戦していたのである。
やがてギャラリーの数が増え、スポンサートーナメントでは入場料を徴収するところが出てきた。それでも、日本プロや日本オープンといった公式戦と呼ばれていた試合は無料のままの時代が続いた。公式戦で初めて入場料を設定したのは1965(昭和40)年の日本プロだった。
有料化に舵を切る役割を担ったのは中村寅吉だった。この年の会場は埼玉県の川越CC(6830ヤード、パー72)。中村自身が設計し、社長も務めていたゴルフ場である。
日本プロゴルフ協会は有料化に積極的ではなかったが、中村には将来を見据えて興行としての基盤をつくりたいという熱意があった。当時の日刊スポーツ紙は「いつまでも有料試合にひるんでいたらプロの発展はない。ひとつのきっかけを作る意味でも川越で有料の日本プロをやろう」という中村の決意を紹介している。
チケットは3日間通しで1000円。池袋の駅前からギャラリーバスも運行した。
中村は演出にもこだわった。出場選手の所属クラブからクラブ旗を送ってもらい、1番ホールのティーグラウンド周囲にずらっと並べた。その意味を中村は報知新聞社発行の月刊誌『ゴルフ』に「大会期間中、プロみんなに、自分は今つとめているクラブを代表して来ている、という意識を持ってもらうんだよ。そうすればいいかげんなプレーはできないし、結果的にはお客さんによいプレーを見てもらうことができるんだ」と語っている。
歴史の節目となった1965年の日本プロは7月15日、30度を超える暑さの中で開幕した。49歳の中村も、選手として参加した。
首位に立ったのは66をマークした陳清波。石井朝夫ら4人が2打差の2位につけた。中村はパープレーの72で30位だった。
2日目も夏の太陽が照りつけ、日射病で棄権する選手が出たほどだった。71にまとめた陳が通算7アンダーで首位を守る。1打差の2位に浮上してきたのは46歳の小野光一と23歳の河野光隆。河野はこの日ベストスコアの67を叩き出し、小野は68をマーク。共に程ヶ谷CC(神奈川県)所属で河野にとって小野は師匠といえる存在である。
36ホールの最終日は陳、小野、河野が同組で激突した。陳は人気、実力ともにトップに君臨する第一人者であり、小野はカナダカップ優勝など輝かしい戦績を持つベテラン。優勝経験のない若い河野は不利だという見方が大半だった。
猛威をふるっていた夏の太陽が隠れ、朝から小雨が降っていた。河野の脳裏には10日前の悪夢がよぎっていた。
相模原GC東C(神奈川県)で行われた関東オープンで河野は首位で最終日(36ホール)を迎えていた。同じ組で回るのは小野と石井朝夫のベテラン2人。河野は無残にも崩れ去り、23位に終わっている。
「こんどはあんな二の舞をしたくない…」「当たってくだけろ」「だけどベスト10には入りたい」(ゴルフ誌より)。さまざまな感情が河野の胸に渦巻いていた。
揺れる心とは裏腹に、河野は最初の9ホールで4バーディーを奪って首位に立つ。2位の陳とは4打差。小野はスコアメークに苦しみ、徐々に後退していった。
だが、インに入って陳が実力を発揮し始め、差を詰めてきた。第3ラウンドを終えて2人は通算8アンダーで並んだ。
後日、ゴルフ誌に寄せた手記で河野は第3ラウンドを終えた時の心境を「18番で6フィートのバーディー・パットが入らなかったとき、ぼくは“負けた”と思った。と同時に経験の差でこうなっては仕方ないとあきらめた。あとはベスト10を狙っていこう。こう気持ちを切りかえたとき、なんだか急に気が楽になった」と綴っている。
最終ラウンド、河野は1、2番で連続バーディーを奪う。対する陳は2、3番でボギーを叩きあっという間に差が開いた。10番パー5では2オンに成功してイーグル。終わってみればコースレコードの65を記録し、国内トーナメント新記録の通算15アンダーで2位の陳と藤井義将に6打差をつける圧勝だった。
「こんなに早くタイトルをとれるとは思ってなかった」。河野はゴルフ誌でそう語っている。関東オープンでの失敗を糧にして無欲になれたことが勝利への扉を開いた。
3日間の入場者数はゴルフ誌の推定で3100人。同誌は「都心から2時間のコース、しかもほとんど宣伝もなく、これだけ動員できたことは一応成功と見るべきだろう」と評している。
1人で何役もの激務をこなした中村は選手としては決勝ラウンドで70、70と意地を見せて15位。大会を総括して「もっともっとやりたいことがあったが、すこしでも従来の古い慣習を破れたことで満足すべきだろう」(ゴルフ誌より)と語った。
挑戦の一歩を踏み出した大会で誕生した若きチャンピオンは新時代への象徴だったのかもしれない。
プロフィル
河野光隆(こうの・みつたか)1941~神奈川県出身。程ヶ谷中学卒業後に程ヶ谷CCのキャディーとなり、やがてプロを目指す。1963年にプロ入会。1965年の日本プロが初優勝だった。日本プロは翌1966年にも優勝。ほかに読売国際オープン(1967年)、チャンピオンズトーナメント(1969年)などに優勝している。1966、67年にはワールドカップ代表にも選ばれた。河野高明は兄。
第33回日本プロゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 河野 光隆 | 273 | = 71 67 70 65 |
2 T | 藤井 義将 陳 清波 |
279 | = 71 71 69 68 = 66 71 71 71 |
4 | 石井 哲雄 | 280 | = 68 74 69 69 |
5 T | 小野 光一 竹間 正雄 杉原 輝雄 |
281 | = 70 68 75 68 = 71 72 71 67 = 72 73 69 67 |
8 T | 内田 繁 加藤 辰芳 |
282 | = 71 72 67 72 = 69 70 72 71 |
10 T | 宮本 省三 能田 征二 |
283 | = 70 70 71 72 = 69 71 71 72 |