第31回日本プロゴルフ選手権(1963年)
2016.02.01
1963年5月24日付スポーツニッポン
次世代の旗手・橘田規が大会初制覇
アニメ「鉄腕アトム」の放送が始まり、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」がレコード大賞受賞。国民的ヒーローだった力道山がこの世を去り、アメリカではケネディ大統領が凶弾に倒れた。終戦から18年たった1963(昭和38)年はそんな年だった。ゴルフ界では戦後のプロトーナメントを牽引してきた中村寅吉や林由郎、小野光一、小針春芳らはすでに40歳を超えていた。それでも龍ヶ崎CC(7012ヤード、パー72)で開催された日本プロの予想記事には「中村寅、小野が本命。ベテランに有利なコース」(スポーツニッポンより)という見出しが躍っていた。
果たして世代交代はあるのか。36ホールの予選ラウンドを終え、首位に立ったのは47歳の中村だった。中村は前年、46歳にして4度目の大会制覇を成し遂げている。その存在感に衰えは見えなかった。
1打差の2位につけたのは30歳の佐藤精一と29歳の橘田規の2人だった。佐藤は当時、まだ優勝経験がなかった。一方の橘田は日本と名のつくタイトルこそ手にしていなかったが関西オープンや関西プロなどすでに5勝を挙げている勢いのある選手だった。
36ホールの最終日、中村のゴルフに狂いが生じる。パットの名手が2番で3パットのボギー。ショットも徐々に乱れていった。佐藤は79と大きく崩れ、優勝争いから後退した。
第3ラウンドのアウトを1オーバーの37で折り返した橘田はインでは15番から3連続バーディーを奪うなど33で回って一気に中村らを突き放す。第3ラウンドを終えて2位・中村との差は5打。最終ラウンドをきっちりとパープレーの72にまとめ、追い上げてきた39歳の石井朝夫を退けて日本プロ初優勝を飾った。大会5勝目を逃した中村は3位だった。
この4年前には日本初の留学生プロとしてアメリカに渡り、ジャック・バーク・ジュニアらの指導を受けた。前年、前々年には中村とともにカナダカップ日本代表に選ばれていた。次世代の旗手として期待が高かった橘田がついにつかんだ初めての日本タイトルだった。
報知新聞社発行の月刊誌「ゴルフ」は優勝直後の橘田の様子を以下のように伝えている。
『日本プロに初優勝し、ハウスを引き上げるとき橘田はぽつりといった。「やっと努力が実りました」。その表情は本当に優勝を喜んでいるのか、それともここまで持ってきた精進をふりかえっているのか、同じ喜びでも奥深いものが読み取れた。』
「ゴルフ」に記されている当時の橘田の体格は1メートル67、52キロ。非常に細身だ。胃腸が弱くて食が細く、肝臓の状態も良くなかったという。体力的な弱点を補ったのが下半身の粘りとバネ。農家の長男として子供のころから当たり前のようにやっていた田んぼ仕事などの手伝いで自然と下半身が鍛えられていた。
翌年、橘田は日本プロを連覇する。さらに日本オープンや日本プロマッチプレーといったビッグタイトルを次々にさらって日本を代表する存在となった。歴史をつくってきた巨星・中村を下し、しっかりと次の時代を引き継いだのだ。
プロフィル
橘田 規(きった・ただし)1934~2003兵庫県出身。19歳でプロ入りし、23歳の時に関西プロで初優勝した。25歳で米国に留学し、帰国後は次々にタイトルを獲得。日本シリーズこそ2位が2度など優勝には届かなかったが、日本3冠(日本プロ、日本オープン、日本プロマッチプレー)を達成した。ワールドカップ代表には1961年から5年連続で選出され、1970、71年には全英オープンにも出場している。2015年、日本プロゴルフ殿堂入り。
第31回日本プロゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 橘田 規 | 285 | = 72 71 70 72 |
2 | 石井 朝夫 | 288 | = 72 73 74 69 |
3 T | 石井 迪夫 中村 寅吉 |
292 | = 73 73 74 72 = 72 70 76 74 |
5 | 勝俣 功 | 293 | = 77 77 69 70 |
6 | 木本 与 | 294 | = 72 74 77 71 |
7 | 栗原 甲子男 | 295 | = 74 75 75 71 |
8 T | 戸田 藤一郎 新井 進 |
296 | = 76 72 75 73 = 72 76 74 74 |
10 T | 杉原 輝雄 藤井 義将 |
297 | = 76 74 75 72 = 75 75 73 74 |