第29回日本プロゴルフ選手権(1961年)
2017.05.01
1961年5月19日付日刊スポーツ
ストロークプレー復活元年に林由郎が大会4勝目
日本プロは第1回大会から第5回大会までストロークプレーで行われた後、第6回大会からは主にマッチプレーで争われていた(戦後復興第1回の1949年はマッチプレー)。現在のように72ホールストロークプレーが定着したのは1961(昭和36)年から。その理由を日刊スポーツ紙は「最終日まで観客を引き寄せるには、日を追うごとに出場者の減るマッチプレーは適当ではない。しかも昨年のように観客の見たいと思う名手が第一日で姿を消すこともあり得る。そこで今回からストロークプレーに切り替えられた。こうすれば競技も三日間(従来は四日間)で終わるし、最後まで強豪の競り合いが見られ、観客動員にも役立つからである」と報じている。当時は72ホールストロークプレーの大会でも最終日は一気に36ホールを行う3日間大会が主流。1日18ホールの4日間大会になるのは1970年代に入ってからのことだ。1961年大会の会場は福岡県の古賀GC(6790ヤード、パー72)。九州で日本プロが開催されるのは戦後初めてのことだった。
5月16日、96選手が参加して開幕した。生憎の雨でスタートが1時間遅れた。グリーンのところどころに水たまりができるという悪コンディションの中、プロ3年目、28歳の加藤辰芳がコースレコードの69をマークして2打差の首位に立つ。2位は前年優勝者の棚網良平と勝俣敏男。林由郎と石井富士夫がパープレーの72で4位につけた。
2日目、雨は上がったが今度はコースに接する玄界灘から強い風が吹き付けた。加藤は75と苦戦したが通算イーブンパー、144でタイながら首位を守った。加藤と並んだのは小野光一、林由郎、藤井義将、細石憲二。9オーバー、153までの43人が最終日に進んだ。
曇天から時折小雨が落ちる最終日、前半の18ホールで69をマークした林と70で回った藤井が抜け出す形となった。同じ組でプレーする2人が最終ラウンドでも競り合いを続ける。藤井が追いつくと林が突き離すという展開で15番を終えて両者ともに通算1アンダー。互角の勝負となった。
16番、林がバーディーパットをねじ込んで1打リード。最終ホールでさらに1打突き離して栄冠を手にした。3位には中村寅吉、小野光一、細石憲二が入った。
日刊スポーツ紙には「昨年関東オープンに優勝したが、公式試合には、ここ数年お目にかかっていないので非常にうれしい。今回は前半ほとんどの選手がパットに苦しんだ。パットの下手な私にとっては好都合だった。そして後半は私のパットが比較的よくなったので勝てたんだろう。しかし最後の最後まで苦しみだけだった。藤井、小野、中村選手らははじめからこわいと思っていたがやはり強い」という林の談話が掲載されている。
当時39歳。ベテランの域に入っていた林にとって5年ぶり4度目の日本プロ制覇。宮本留吉と戸田藤一郎が戦前に打ち立てた大会最多勝記録に並ぶ快挙だった。
プロフィル
林由郎(はやし・よしろう)1922~2012
千葉県出身。子供のころに自宅近くの我孫子GC(千葉県)でキャディーを始め、その後プロとなる。戦後初のプロ競技となった1948年の関東プロで初優勝を飾り、49年日本プロ、50年日本オープンと戦後の第1回大会を次々に制していった。日本プロ4勝、日本オープン2勝などの実績に加え、青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇(日本男子ツアー)、海老原清治(欧州シニアツアー)、福嶋晃子(日本女子ツアー)と6人もの賞金王・女王を育てた名伯楽としても名高い。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第29回日本プロゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 林 由郎 | 286 | = 72 72 69 73 |
2 | 藤井 義将 | 288 | = 73 71 70 74 |
3 T | 細石 憲二 小野 光一 中村 寅吉 |
290 | = 73 71 77 69 = 73 71 74 72 = 75 74 72 69 |
6 | 松田 司郎 | 291 | = 75 71 74 71 |
7 | 新井 進 | 292 | = 74 73 74 71 |
8 | 橘田 規 | 294 | = 76 73 72 73 |
9 | 磯村 行雄 | 295 | = 78 75 70 72 |
10 | 戸田 藤一郎 | 296 | = 75 71 75 75 |