第28回日本プロゴルフ選手権(1960年)
2016.08.01
優勝カップを持つ棚網良平(日本プロゴルフ協会50年史より)
最後のマッチプレー王者は伏兵・棚網
1960(昭和35)年の日本プロは鹿島灘に面した大洗GC(茨城県、7200ヤード、パー72)で行われた。この国内有数の難コースで日本と名のつく大試合が開催されるのは初めてのことだった。大会初日は5月23日の月曜日。快晴弱風の好コンディションに恵まれる中、93選手が翌日からのマッチプレーに進める16枠をかけて36ホールのストロークプレーを行った。トップで予選を通過したのは1オーバー、145で回った小針春芳。杉原輝雄や木本与といった関西の若手や小針と同じ那須GC所属で19歳の山口征二らフレッシュな面々がマッチプレーに駒を進めた。一方で大会3連覇中だった中村寅吉をはじめ小野光一、石井朝夫、島村祐正ら優勝候補と目されていた強豪が多数姿を消す大波乱もあった。中村は前半の18ホールは72でトップグループにつけていながら後半はまさかの80。大会史上初の4連覇の野望は予選でついえた。
2日目は1、2回戦が行われた。勝ち上がったのは橘田規、棚網良平、細石憲二、栗原甲子男の4人。橘田は1回戦で山口とのエキストラホールに及んだ接戦を制すると2回戦ではメダリストの小針を6&5で一蹴。2年連続のベスト4を決めた。39歳の棚網は8年ぶりのマッチプレー進出だったが自己最高の2回戦を突破して初めて準決勝に進んだ。細石はまだ優勝経験のない23歳の若手。前年も予選を通過したが1回戦で中村寅吉に敗れている。準決勝進出は初めてだ。関東プロや関東オープンで優勝経験がある実力者・栗原は日本プロでも前年まで2位2回、ベスト4が2回と安定した成績を残していた。
準決勝からは36ホールの勝負である。組み合わせは橘田VS棚網、細石VS栗原だった。報知新聞社発行のゴルフ誌『ゴルフ』は「橘田と栗原が決勝にのこる二人だろうと多くの人が予想した」と記している。だが、結果は下馬評とはまったく逆。決勝に勝ち進んだのは棚網と細石だった。
棚網は前半の18ホールを終えて1ダウンだったが後半の1番パー5でイーグルを奪って勢いに乗り、2、3番と3ホール連取。その後は一時追いつかれたものの再び突き放して2アップで勝利を手にした。余談になるが大洗GCの1番ホールはその後改造されて現在はパー4となっている。代わりにパー4だった2番が距離を延長してパー5となった。
閑話休題。一方の細石は10番までで5アップと大きくリード。経験豊富な栗原の出鼻をくじいた。そこから栗原は激しく追い上げたが一歩及ばず、細石が金星を挙げた。
10年前(1950年)の関東プロ決勝で中村寅吉を6&5の大差で破って以来、優勝から遠ざかっていた棚網は小技で勝負するタイプ。若い細石は立派な体躯から繰り出す長打力が魅力。伏兵同士の決勝は対照的なタイプの2人の対戦となった。
飛距離では細石が圧倒していた。棚網が2打目にウッドやロングアイアンを握るパー4で細石がショートアイアンということがしばしばあった。
序盤は細石が優勢だった。長打力を生かし、9番を終えて2アップとリードした。しかし、インに入って棚網が反撃。オールスクエアで前半を終えた。後半もアウトは細石が走った。8番を終えて3アップ。初優勝、そしてプロ日本一の称号にグッと近づいたかに見えた。
だが、ここから棚網が粘る。9番は細石がティーショットを左に曲げて2打目は出すだけ。棚網がひとつ返した。14番で棚網がバーディーを奪って1ダウンに盛り返す。すると15番で細石がティーショットを左に曲げたことから乱れてダブルボギー。ついに棚網が追いついた。優勝を手繰り寄せたのは17番だ。難ホールが並ぶ大洗GCの中でも最難関といわれるホールである。460ヤードとたっぷり距離のあるパー4は互いに2打目は2番ウッドだった。まず棚網が確実に花道に運ぶ。続く細石のショットは左に曲がり、グリーン左の砂地に落ちた。細石はここからの第3打をオーバーさせて逆サイドのバンカーに入れてしまう。一方の棚網は確実に寄せてパー。土壇場でついにリードを奪い、そのまま逃げ切った。
10年ぶりの美酒は大きな大きなタイトルとなった。見事な逆転劇を演じたベテランは「こういう運が向いたのは一生に一度ですからね……」(スポーツニッポン紙より)と優勝の味をかみしめた。
日本プロは翌1961年から72ホールストロークプレーに競技方法が変更された。つまり、棚網がマッチプレーでの最後の優勝者となったわけだ。
決勝で敗れた細石は翌年、日本オープンで初優勝を飾る。“暗闇のプレーオフ”といわれる5人の戦いを制しての勝利だった。
プロフィル
棚網良平(たなあみ・りょうへい)1921~2012東京都出身。11歳でゴルフを始める。左利きでゴルフも左で覚えたがプロで一本立ちするために右打ちに転向する。小技の名手として知られ、レギュラーでは1950年関東プロ、1960年日本プロの2勝。シニアでは1987年の関東プロシニアを制している。1970年代には日本プロゴルフ協会副理事長を務め、ゴルフ界の発展に寄与した。