第26回日本プロゴルフ選手権(1958年)
2017.11.06
1958年10月12日付スポーツニッポン
ジンクスを吹き飛ばして中村寅吉が大会連覇
競技方法がマッチプレーだった時代の日本プロは初日に36ホールストロークプレーの予選を行い、上位16人(1931~33年は上位8人)がマッチプレーに駒を進める形だった。予選のトップ通過者はメダリストと称される。これは、かつてストロークプレーがメダルプレーとも呼ばれていたことに由来する。マッチプレー開催は計22回あった。太平洋戦争中に唯一開催された1942(昭和17)年は出場選手が少なく、最初からマッチプレーで行われたため予選を開催したのは21回。その中でメダリストが優勝した例は6回ある。率にして3割弱。これを多いとみるか、少ないと考えるかは難しいところだろう。
ちなみに、メダリストが初戦で姿を消したことも6回あった。特にマッチプレー開催の終盤、1950年代に多く、55年から57年までは3年連続でメダリストが1回戦敗退の憂き目に遭っている。
そして迎えた58年、メダリストとなったのは前年チャンピオンの中村寅吉だった。会場は兵庫県の鳴尾GC(6195m、パー70)。10月8日、秋晴れの下、77人のプロが予選に挑み、中村は68、70の計2アンダー、138の好スコアで栗原甲子男に2打差をつけた。前年は小野光一とのペアでカナダカップを制して日本にゴルフブームを巻き起こしたスーパースターはこの年も関東オープンで優勝するなど好調を維持。“メダリストが3年連続初戦敗退”の不吉なデータも中村には通用しないのか、はたまたジンクスに屈するのか、1回戦の相手は藤井義将に決まった。
翌日、中村は日本プロのマッチプレーに初めて進出した藤井に食い下がられ、1アップで何とかしのいだ。メダリストにとっての“鬼門”だった1回戦を突破してひと息ついたのか、続く2回戦は難敵の石井哲雄を4&2で一蹴。51年大会決勝で敗れた借りを返した。
3日目は36ホールの準決勝、相手は22歳の北本隆だ。北本は大会初出場ながら予選を通過すると1回戦で陳清水、2回戦で島村祐正とベテランを下して台風の目になっていた。しかし、第一人者を前に萎縮したのかプレーが冴えず、前半の18ホールを終えて中村が6アップと大量リード。早々に決着がつきそうな展開だった。
報知新聞社発行のゴルフ誌『ゴルフ』は「ところが午後になって北本選手はまるで人間が変わったかのようなすばらしいプレーで中村選手を苦しめた」と当時の様子を伝えている。後半の1番を奪ったのを皮切りに北本が次々にホールを奪う。すると焦りが出たのか中村がミスを連発。あっという間に中村のリードはわずか1アップとなっていた。
だが、ここから抜かせないのがスーパースターたる所以。15番パー3、中村の3番アイアンの1打はカップ数cmにピタリと止まってバーディー。続く16番では8mのバーディーパットをねじ込んで北本を突き放した。
準決勝のもう1戦は予選2位の栗原が松田司郎に8&7の圧勝。決勝は前年と同じ顔合わせとなった。
前年の決勝は両者譲らぬ激戦だった。36ホール目、中村がバーディーを奪って決着。大会初優勝、さらにはカナダカップ代表を確実にした大きな勝利だった。
決勝は好天の下、午前9時にスタートした。前半の18ホール、確実にパーを重ねる中村に対し、栗原はところどころでミスが出る。中村2アップでターンした。後半、2番で栗原がボギーを叩いて中村の3アップ。5番では栗原がOBを打って中村がリードを広げた。ここが勝負どころとみたのか、中村は6、7番で連続バーディーと畳み掛け、一気に6アップまでもっていった。流れはここで決まったといっていい。その後、栗原が3つ返すがそこまで。3&2で中村が大会連覇を飾った。“メダリストが3年連続初戦敗退”のジンクスを貫録で払拭した優勝だった。
『ゴルフ』には「横綱と前頭16枚目の取組みたいなもので、片手で押し出された」という栗原のコメントが掲載されている。この時34歳、すでに関東プロや関東オープンのタイトルを持っていた栗原にしてこれだけ彼我の差を感じていたわけだ。
中村はこの約3週間後に日本オープンを制し、翌年には日本プロ3連覇を飾っている。まさに向かうところ敵なしの充実期であった。
プロフィル
中村寅吉(なかむら・とらきち)1915~2008神奈川県出身。1934年にプロとなるが、大輪の花を咲かせたのは戦後。50年の第1回関東オープンで初優勝を飾ってから第一人者へと駆け上がった。57年にはカナダカップで団体、個人の2冠を達成している。主な戦績は日本プロ4勝、日本オープン3勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。また、日本女子プロゴルフ協会初代会長として黎明期の女子プロ界を支えた。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。