第25回日本プロゴルフ選手権(1957年)
2014.08.04
7月27日付スポーツニッポン
カナダカップ優勝につながった初の「プロ日本一」
1957年の日本プロは単に「プロゴルファー日本一」を決めるだけの戦いではなかった。3カ月後に霞ヶ関CC(埼玉県)で行われる国別対抗戦・カナダカップの日本代表を選ぶための最後で最も重要な試合という意味合いが強かったのだ。日本で初めて開催される国際試合の代表の座を勝ち取るのは誰かということは、大きな注目を集めていた。代表は日本ゴルフ協会が理事会で3~4人の推薦者を決めて国際ゴルフ連盟に諮り、最終的には国際ゴルフ連盟が代表2人を決めるというのが慣例。この年は日本プロ最終日に緊急理事会を行うことが決まっていた。判断基準は日本プロの成績に加え、この年のほかの競技の成績、過去の実績などである。
メディアは大会前から代表の予想を展開した。報知新聞は2週間前に行われた読売プロに勝ち、月例競技でも好成績を収めていた小野光一と、前の年に日本オープン、関東オープン、読売プロの3勝を挙げていた中村寅吉、前年の日本プロ覇者・林由郎の3人を有力候補に挙げた。日刊スポーツは小野、中村、林に加えて前年のカナダカップで林とペアを組み、4位という過去最高の成績をマークした石井迪夫の4人をピックアップ。注目が集まる中、7月23日、程ヶ谷CC(神奈川県)で大会は幕を上げた。
初日はマッチプレーに進出する16人を決める36ホールのストロークプレーである。程ヶ谷CC所属の小野は午前中にコースレコードの68を記録し、午後は74にまとめて、通算2アンダーの142で新井進とともに1位で通過。後日、メダリスト(予選1位)決定戦を行うことになった。中村、林、石井らも順当に予選をクリアし、マッチプレーへと駒を進めた。
2日目は18ホールマッチプレーの1、2回戦が行われた。小野は1回戦で栗原甲子男と対戦。一時3アップとリードを奪っていながら逆転負けを喫してしまった。林と石井も1回戦で敗退と有力候補に挙がっていた選手が次々に姿を消す中、中村は1回戦で橘田規を6&5、2回戦で予選1位タイの新井を6&4とともに危なげなく下して準決勝に進んだ。
3日目にはメダリスト決定戦が18ホールストロークプレーで行われ、73の小野が2打差で勝利。メダリストの栄誉を授かった。そして、36ホールで争われた準決勝で中村は程ヶ谷CC所属の中村正夫を3&2で下して決勝進出。1回戦で小野を下している栗原と覇権を争うことになった。
この時まで、中村は日本プロのタイトルを手にしていなかった。同じくマッチプレーで争われていた関東プロでも決勝で4度敗れるなど、一度も優勝していなかった。ストロークプレーではすでに日本オープンで2勝、関東オープンでは4連覇を含む5勝を挙げていたにもかかわらずである。実際「オレはお人よしだから(マッチプレーは)ダメなんだ」という本人のコメントが残っている。
“マッチプレーでは優勝できない”というジンクスを破り、カナダカップ代表の座を確実にするために臨んだ決勝は息詰まる熱戦となった。前半の18ホールは両者2ホールずつ取ってマッチイーブンで折り返す。後半、栗原が2番を奪って先行するが、中村がそこから反撃し、14番を終えて3アップと断然優位に立った。しかし、栗原は15番でバーディーを奪ってひとつ戻すと、16番では中村がバンカーに入れてボギー。中村のリードは1アップになった。17番は中村が寄せワンでしのぎ、1アップを保って18番パー4へ入った。
勝負の行方が混とんとする中、41歳の中村がベテランの意地と技をみせる。第2打をベタピンにつけたのだ。これを決めて勝負あり。粘る栗原をついに振り切った。
雨の中の決戦を制した中村は風呂で汗を洗い流してから「苦しかった、みんな。1回戦も2回戦も決勝も同じだよ。優勝なんかしようとは思わなかったが、だれにも負けたくないとは思っていた。なに、それじゃ同じことだって? ああ、そうか」と話している(コメントは報知新聞より)。
ホールアウト後の緊急理事会で中村と小野の2人がカナダカップ日本代表に推薦された。慣例では3~4人だった推薦者が2人になったことについて、石井光次郎日本ゴルフ協会会長は「この傑出した2人を除けば、ほかの選手を推薦する余地はない」と述べた。中村はこの日本プロでの優勝が、小野はメダリストに輝いたことが決定打となった。これにより、中村と小野が自動的に日本代表に決まった。
大会翌日、相模原GC(神奈川県)において日本プロゴルフ協会の発足式が行われた。関東と関西に分かれていたプロゴルフ協会が一体となったのである。そして、中村と小野の日本代表は10月のカナダカップで見事に優勝を果たす。1957年の日本プロは、まさに時代の変わり目に位置する重要な大会となった。
プロフィル
中村寅吉(なかむら・とらきち)1915~2008神奈川県出身。1934年にプロとなるが、大輪の花を咲かせたのは戦後。50年の第1回関東オープンで初優勝を飾ってから第一人者へと駆け上がった。57年にはカナダカップで団体、個人の2冠を達成している。主な戦績は日本プロ4勝、日本オープン3勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。また、日本女子プロゴルフ協会初代会長として黎明期の女子プロ界を支えた。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。