第24回日本プロゴルフ選手権(1956年)
2016.10.03
大会3勝目を飾った林由郎。左は所属先である我孫子GCの先輩・山本増二郎プロ(写真提供:日本プロゴルフ協会)
林由郎が横綱相撲で3度目の栄冠
終戦から11年、1956(昭31)年の日本プロは愛知県の名古屋GC和合C(パー70)で開催された。戦後、中部地区で日本と名のつくビッグイベントが行われるのは初めてのことだった。参加選手は66人。初日は翌日からのマッチプレーに進む16人を選ぶ36ホールストロークプレーの予選が行われた。予選1位のメダリストに輝いたのは茨木CC所属の寺本金一。1打差2位に島村祐正が入り、前年覇者の小野光一や中村寅吉、林由郎、陳清水といった実力者が勝ち上がった。2日目は18ホールマッチプレーの1、2回戦が行われた。メダリストの寺本は1回戦で早々に姿を消した。中村は2回戦で島村とエキストラホールにもつれ込む激戦の末、最後はショートパットを外して敗退。島村は1回戦の陳に続いて強豪対決を制した。2回戦屈指の好カードとなった小野VS林の対戦はオールスクエアで迎えた18番を林が取り、1アップで準決勝に進んだ。
準決勝(36ホール)の組み合わせは林VS島村に新井常吉VS萩原泉次郎となった。新井は当時25歳。日本プロの出場は3年ぶり2回目でマッチプレー進出は初めてだったが1回戦で実績のある栗原甲子男を破るなど快進撃をみせている。萩原は38歳のベテランだがこちらもマッチプレーに進んだのは初めて。伏兵同士の対戦となったわけだ。
先にスタートした新井VS萩原のマッチは萩原が2番から3連続アップと好調な出足をみせる。前半の18ホールを終えて萩原が2アップとリードした。後半は新井が食い下がり、接戦に持ち込む。オールスクエアで迎えた17番で萩原が3パットして新井が“王手”をかけた。しかし、新井は18番パー4で2打目をトップするミス。ゲームは延長へと入った。1番は2人ともにティーショットでOBを打った末に分け。2番を分けたあと、3番で萩原が2打目をOB。39ホール目にして決着がついた。
林VS島村の対戦は一進一退の攻防が続いていたが林1アップで迎えた後半の6番パー4で互いに2打目をバンカーに入れたあと、林だけがパーセーブして2アップ。これで流れが大きく林に傾き、7、8番も連取して島村を突き放した。
すでに日本プロ2勝を含む数々のタイトルを手中にし、戦後の日本プロゴルフ界を牽引していた林と実績のない新井。対照的な2人の対戦となった決勝は強風下で行われた。1番パー4、林がグリーンを外してボギーを叩いたのに対して新井は確実に2オンしてのパー。まずは新井がリードを奪った。2番パー5は新井が3パットして林が奪う。そして3番パー4は林が2番アイアンでの2打目をグリーン奥に外してボギー。グリーン手前から“寄せワン”を決めた新井が再び1アップとした。
プロ日本一の栄冠をかけた大舞台で伏兵が横綱相手に互角以上の戦いをみせた序盤。しかし、ここから地力の差が表れる。新井が5、6番と連続してボギーを叩き、林が逆転。その後も新井はスコアを崩し、強風の中、忍耐強くプレーを続ける林のリードが大きくなっていった。
勝負が決したのは30ホール目。7&6の大差で林が6年ぶり3度目の優勝を飾った。
終わってみれば林の横綱相撲だった。戦後初めてのプロトーナメントとなった1948年の関東プロで初優勝を飾って以来、ほぼ毎年優勝を積み重ね、これがちょうど10勝目。第一人者が貫録を示した勝利だった。
一方で決勝は力及ばなかったが新井の躍進も大会を大いに盛り上げた。報知新聞社発行のゴルフ誌『ゴルフ』では大会の戦評で「賞される新井選手の健斗」(原文のまま)と見出しを立てて称えた。
プロフィル
林由郎(はやし・よしろう)1922~2012千葉県出身。子供のころに自宅近くの我孫子GC(千葉県)でキャディーを始め、その後プロとなる。戦後初のプロ競技となった1948年の関東プロで初優勝を飾り、49年日本プロ、50年日本オープンと戦後の第1回大会を次々に制していった。日本プロ4勝、日本オープン2勝などの実績に加え、青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇(日本男子ツアー)、海老原清治(欧州シニアツアー)、福嶋晃子(日本女子ツアー)と6人もの賞金王・女王を育てた名伯楽としても名高い。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。