第23回日本プロゴルフ選手権(1955年)
2015.06.01
1955年5月28日付スポーツニッポン
“4度目の正直”でつかんだプロ日本一の座
1926(大正15)年に始まった日本プロは第5回大会まではストロークプレーで行われ、第6回大会からマッチプレーに切り替わった。戦後は1949(昭和24)年の復興第1回大会こそストロークプレーだったが、翌1950年からは再びマッチプレーへと移行している。復興第1回大会の優勝者は林由郎、2位は2打差で小野光一だった。マッチプレーとなった1950年大会も林が優勝。決勝で林に敗れたのは小野。2年連続で1、2位が同じ顔ぶれだった。小野は1954年にも決勝に進むが石井茂に7&5で大敗している。戦後6回の日本プロで小野は2位が3回。プロ日本一の座に届きそうで届かなかった。
1955年の日本プロは相模CC(6449ヤード、パー72)で開催された。初日は62人の参加者が36ホールストロークプレーの予選を行い、2日目からのマッチプレーへ進出できる16の枠を争った。
トップで予選を突破したのは寺島繁蔵。5アンダー、139の好スコアだった。石井迪夫、中村寅吉、林由郎、陳清水ら実力者が続き、小野は2オーバー、146の9位でマッチプレーに駒を進めた。
小野の1回戦の相手は予選1位の寺島だったが、3&2で一蹴。2回戦は川波義太郎の追い上げに苦戦したが1アップで振り切った。
3日目は36ホールで争う準決勝。小野は2回戦で中村寅吉を破った石井茂と対戦した。前年の決勝で大敗を喫した相手である。
一進一退の攻防は32ホールを終えてマッチイーブン。がっぷりに組み合っていた。だが、33ホール目で石井が第1打を痛恨のOB、さらに34ホール目をボギーとして小野が一気にリードを奪い、2&1で雪辱した。
準決勝もうひとつのマッチは林が栗原甲子男を1アップで下した。決勝は林―小野。1950年と同じ顔合わせとなった。
36ホールの決戦は午前9時30分に火ぶたが切られた。序盤は小野が快調に飛ばす。2、5、6、12番を取って4アップとリードした。
これに対して林は14、17番でバーディーを奪って反撃し、前半18ホールを終えた時点で小野2アップという形となった。
後半開始直後、小野が2ホール連取で4アップとするが、林がここから猛反撃。27ホール目で追いつき、29ホール目で初めてリードを奪った。小野も負けてはいない。32、33ホール目を連取して逆に1アップ。そのまま36ホール目を迎えた。
36ホール目の18番は475ヤードのパー5。林は2打目をグリーン奥に運び、寄せてバーディー。小野は2m弱のバーディーパットを決めれば優勝だったが、ホールの縁で半回転して止まった。土壇場でオールスクエア。勝負はエキストラホールへ持ち越された。
1番、2番と分け、迎えた3番パー3は2人ともに1オンした。先に打った林のバーディーパットは外れた。小野のバーディーパットは約15ヤード。これを、一発で沈めてみせた。
スポーツニッポン新聞に寄稿した当時日本アマ連覇中の三好徳行は「運命の神は3番において小野のロング・パットは快よい音をのこして沈むいたずらをして熱戦もついに幕を閉じた」と記した。
同紙は小野の喜びの声を次のように伝えている。
「こんどで決勝に出るのが四度目なんですよ。それだけに何としてでも勝ちたかった。林選手に追い込まれて気分的に非常に苦しくなり固くなった。十八番でパットを逸したのはその現れですよ。エキストラの三番でロング・パットが決り漸く勝つことが出来た。永年の野望を達してうれしくてたまりません」
決勝に出るのは実際は3度目だったのだが、1949年にストロークプレーで林に敗れた2位も含めて「四度目なんですよ」というコメントになったのだろう。いずれにせよ、難産の末につかみ取った栄冠であることは間違いない。
小野はこの4カ月後には日本オープンで3度目の優勝を果たし、浅見緑蔵、宮本留吉、戸田藤一郎、林由郎に続く史上5人目の日本プロ、日本オープン同一年制覇を成し遂げた。
プロフィル
小野光一(おの・こういち)1919~2000旧満州出身。中国・大連のゴルフ場で働いていたところ日本の財界人にゴルフの腕前を見込まれ、1937年に来日した。当時の名は孫士釣(そん・しきん)。後に帰化して小野光一と名乗った。日本オープン3勝、日本プロ1勝、関東プロ5勝。1957年、日本開催のカナダカップでは中村寅吉とのコンビで日本を初の世界一に導いた。2012年日本プロゴルフ殿堂入り。