第22回日本プロゴルフ選手権(1954年)
2017.04.03
戦いを終え、13番グリーンで互いの健闘をたたえ合う石井茂(左)と小野光一(ゴルフ1954年8月号より)
41歳でつかんだ初タイトル
静岡県伊東市を故郷とするプロゴルファーは多い。中でも石井姓のプロは太平洋戦争前後の日本プロゴルフ界で大きな存在感を示していた。最初にタイトルを手にしたのは石井三兄弟の長兄・治作。1935(昭10)年の関西プロで初優勝を飾っている。戦後、まず三兄弟の末弟・哲雄が1951年の日本プロで優勝。三兄弟の親戚筋に当たる迪夫と日本プロゴルフ殿堂入りしている朝夫は1953年に初優勝を飾ったのを皮切りに多くのタイトルを獲得した。
一歩遅れていたのが三兄弟の次男・茂だった。日本オープンでは1951年に3位、翌1952年には2位の成績があったが日本プロではベスト8が最高位。優勝には縁がなかった。その背景には1945年に遭った自動車事故で左足を骨折した影響が少なからずあったといわれている。
その石井茂が快進撃を見せたのは広野GC(パー72)で行われた1954年の日本プロだった。
大会は7月5日に開幕する予定だったが大雨のために1日順延された。雨はコースに大きな被害をもたらし、橋が流された場所では選手らを筏に乗せて川を渡るという珍しい光景も見られた。
仕切り直しとなった予選ラウンド(36ホールストロークプレーで上位16人がマッチプレーに進出)で石井は154にまとめ10位で決勝トーナメント進出。石井にとって3年ぶりの決勝トーナメントだった。
1回戦、石井は2年前の関東プロ優勝者・三田鶴三を7&5の大差で撃破。2回戦では前年の日本プロチャンピオン・陳清水を3&1で下して初の準決勝進出を果たした。
準決勝の相手は2回戦で予選メダリストの林由郎を破った島村祐正だった。前半の18ホールで石井は7バーディーを奪う猛攻で7アップと大量リードを奪う。後半も差を広げ、9&8の圧勝で決勝戦に駒を進めた。準決勝のもう1試合は小野光一が7&5で栗原甲子男を破り、4年ぶりの決勝進出を決めていた。
41歳で未勝利の石井茂と、すでに日本オープンや関東プロを制していた35歳の小野光一。実績でも年齢的にも小野が優位だった。だが、石井は小野に一度もリードを許さないまま突っ走った。
1番パー5で石井がバーディーで先制。2番で小野が取り返すが、3番で小野がティーショットを曲げて再び石井が1アップ。5、6番も石井が奪って差を広げていった。前半の18ホールを終えたところで石井が4アップとリードする。後半も石井が少しずつ差を広げ、6アップで迎えた13番パー3で石井がグリーン右からパターで転がしてチップインバーディー。ここで決着がついた。
これが石井にとって最初の、そして唯一のタイトルとなった。翌年も準決勝に進んだが小野に逆転負けを喫している。
プレーヤーとしての記録は1勝だけかもしれない。しかし、杉本英世、内田繁ら多くの名選手を世に出した功績はゴルフ界に深く刻まれている。
プロフィル
石井茂(いしい・しげる)1912~2002静岡県生まれ。兄・治作、弟・哲雄とともに“石井三兄弟”として名をはせた。トーナメント優勝は1954年日本プロの1勝だが、杉本英世、内田繁らを筆頭に多くのプロを育て、日本プロゴルフ協会副会長としても活躍した。1996年にはスポーツ功労者として文部省から表彰されている。