第21回日本プロゴルフ選手権(1953年)
2017.02.06
1953年6月19日付報知新聞
悪天候の中、陳清水が大会初の40代覇者となる
NHKが日本初のテレビ本放送を開始し、政治の世界では「バカヤロー解散」が話題となった。1953(昭和28)年はそんな年である。この年の日本プロは6月15日から4日間、千葉県の我孫子GCで開催された。大会前、報知新聞が優勝候補の筆頭に推していたのは我孫子GC所属の林由郎だった。林は戦後、我孫子GCで開催された日本プロ(1948、49年)、日本オープン(1949年)にすべて優勝。圧倒的な相性の良さを誇っていた。
72選手が参加し、36ホールストロークプレーで翌日からのマッチプレーに進める16枠を争った初日は前夜からの雨がスタートするころにはあがり、蒸し暑い中で行われた。前年優勝の井上清次や実力者の石井迪夫らが姿を消す中、予選1位のメダリストに輝いたのは142で回った小野光一。林は151と苦しみ、同スコアの5人で4枠を争うプレーオフを経て辛うじてマッチプレーに進んだ。16人の中には43歳のベテラン、陳清水の姿もあった。
2日目は18ホールマッチプレーの1、2回戦が行われた。林は1回戦で上田悌造を3&1で退けると、2回戦ではメダリストの小野を7&5で一蹴。優勝候補筆頭の力を示した。勝ち上がったのは林のほか、陳、島村祐正、中村寅吉という面々。準決勝の組み合わせは林VS島村、中村VS陳となった。
準決勝からは36ホールマッチである。林と島村のマッチは午前中こそ接戦で林の1アップだったが、午後に入って林が4ホール連続バーディーを奪うなどして一気に差を広げて6&5で快勝した。中村と陳の戦いは中村が短い距離のパットに苦しみ、18ホールを終えて陳の4アップ。後半も陳がこのリードを守って4&3で勝った。
すでに日本プロ、日本オープン、関東プロといったタイトルを手にしていた陳だったが戦後は年齢的なものもあってか優勝からは遠ざかっていた。前年の日本プロでは決勝まで進みながら井上に5&3で敗れている。決勝の相手である林はこの時31歳。ちょうど干支ひと回りの年齢差があった。
決勝は午前9時、雨の中で始まった。午前の18ホールは一進一退の攻防。オールスクエアで終えた。午後、雨は激しくなっていった。まず陳が1番を取るが、林が5番から3ホール連続で奪って2アップとする。これに対して陳は9番から3ホール連取。9番では林がアプローチをミスし、10、11番では陳が連続バーディーという内容で逆転した。13番で林が入れればオールスクエアに戻せるという1m足らずのパットをミス。17番では林がティーショットを曲げて陳が奪い、2&1で決着がついた。
報知新聞に陳の談話が掲載されているので一部を抜粋しよう。「第2ラウンドのアウトで2ダウンを喫して重荷になったが、インで調子が整い11番で1アップしたときは気分が楽になった。林さんはプレーもシュアーだし好調のようだった。ぼくが勝てたのは運がよかったというほかはない」
陳にとって1942年以来、11年ぶり2度目の日本プロ優勝。悪天候にもリードされた状況にも動じなかった強い精神力は数々の経験を積んできたベテランのなせる業か。日本プロを40代の選手が制するのは初めてのことだった。
プロフィル
陳清水(ちん・せいすい)1910~1994台湾出身。淡水GCでキャディーを経てプロとなる。1927年に程ヶ谷CC(神奈川県)で修業するため来日して浅見緑蔵の下で7カ月ほど学ぶ。その後再来日して日本に定住した。1936年のマスターズで戸田藤一郎とともにアジアの選手として初めての出場を果たし、20位に入っている。日本プロ2勝(1942、53年)、日本オープン1勝(1937年)、関東プロ3勝(1934、35、56年)。1973年に日本に帰化している。