第20回日本プロゴルフ選手権(1952年)
2017.07.03
優勝カップを掲げる井上清次(写真提供:日本プロゴルフ協会50年史)
冴えたパッティングで井上清次が大会初優勝
第20回の節目となった1952(昭和27)年の日本プロは予選から波乱の展開となった。この年は62人が参加し、相模CC(神奈川県)で6月5日に開幕した。マッチプレーに進出する16人を決めるための予選は36ホールのストロークプレー。大会4勝のベテラン宮本留吉をはじめ、関東オープン3連覇を飾ったばかりの中村寅吉、前年の日本オープンチャンピオンの小野光一らが早々に姿を消した。予選1位のメダリストは71、75の146で回った島村祐正。2位には149で相模CC所属の井上清次が入った。150を切ったのはこの2人だけだった。
初日は南風が強く、楽なコンディションではなかった。それも考慮して、予選のスコアは当時としてはそれほど悪いわけではなかった。しかし、日本ゴルフ協会理事(後に常務理事)の小寺酉二はゴルフ誌のゴルフマンスリーに厳しいコメントを寄せている。小寺は同年、米国のウエスタンオープンでロイド・マングラムが64のスコアを出したことを例に挙げて「世界基準からいえば非常に低い」と断じた。そして「(米国では)アンダーパーで回るプロは1試合に少なくとも4、5人はいる。これら米国のプロに比べて日本プロの力を思うと心細いものである」と奮起を促した。
2日目は18ホールマッチプレーの1、2回戦が行われた。陳清水が1回戦でメダリストの島村を破り、2回戦も勝って準決勝進出。予選2位の井上は1回戦で村上義一を1アップ、2回戦で石井迪夫を3アンド2で下して2年ぶりに準決勝に駒を進めた。残る準決勝進出者は林由郎と寺島繁蔵だった。
3日目は36ホールの準決勝である。陳と林の実力者同士の対決は38ホールまでもつれ、陳が林を振り切った。井上と寺島の対戦は3アンド2で井上の勝利。小寺はゴルフマンスリー誌で「寺島のドライバーに脅かされながら、井上は全てをよく心得て寄せては入れ寄せては入れ、十分自分のペースでゴルフをやった。ホームコースだからできたともいえる」(一部現代語訳)と解説している。
戦争が激しくなる前に日本プロ、日本オープンの両タイトルを制していた陳。対する井上は日本と名のつくタイトルはなかったが関東プロで2勝を挙げていた実力者だった。しかも、そのうち1勝(1942年)は決勝で陳を下してのものだった。
42歳の陳は実に5度目の決勝戦。36歳の井上は1938年に戸田藤一郎に敗れて以来、14年ぶり2度目の決勝だった。
序盤、2人は互いに同じスコアを並べていく。動きが出たのは8番パー4だった。井上が2打目を2m弱に寄せてバーディーを奪ったのだ。12番で陳がオールスクエアに戻すが、13番パー3で井上が2m弱につけてこの日2個目のバーディー。再び1アップとした。井上はさらに16、18番も奪って3アップで前半を終えた。
午後からは雨が降り出した。井上の安定したゴルフに狂いが生じた。ボギーを重ね6番でリードを失ってしまった。
だが、ここから再び井上のエンジンがかかる。7、8番で長いパットを入れて2アップ。10番ではバンカーから寄せてパーを拾い、陳はボギー。3アップとした。井上はさらに差を広げ、5アンド3で快勝。初めて日本タイトルに名を刻んだ。
ゴルフマンスリー誌の小寺評は「井上はこの日午前1パット6つ午後7つ、特に午後7番の10ヤードパットを入れたのですっかり気をよくしたらしい。陳の1パットは午前1つ午後1つ、これだけでも井上の勝ちは当然だろう」(一部現代語訳)というもの。隅々まで知り尽くしたホームコースで冴えわたったパッティングが井上の勝因だったことが分かる。
プロフィル
井上清次(いのうえ・せいじ)1915~1992神奈川県出身。1935年にプロ入りし、日本プロ1勝(52年)、関東プロ2勝(42、51年)を挙げた。シニアでは69年の関西プロシニアなどで優勝。岐阜関CC(岐阜県)で森口祐子を育てたことでも知られる。