第19回日本プロゴルフ選手権(1951年)
2016.12.06
優勝トロフィーを持つ石井哲雄(ゴルフマンスリー1952年1月号より)
石井哲雄、初優勝を日本プロで飾る
1951(昭和26)年10月8日から4日間、戦後3度目の日本プロが兵庫県の広野GC(パー72)で開催された。参加選手は46人。初日はマッチプレーに進む16人を決める36ホールのストロークプレーによる予選が行われた。予選で存在感を見せつけたのが36歳、脂の乗ってきた中村寅吉だった。前半の18ホールを75で回って林由郎らと首位に並んだ中村は後半の18ホールでホールインワンを含む67を叩き出した。後半でこれに次ぐスコアは76だったから、いかに中村の67が図抜けていたかが分かる。36ホール通算では142となり、2位グループには実に12打もの大差をつけての1位通過だった。
2日目は1、2回戦が行われた。中村は1回戦で赤松数一を4&3で下し、2回戦で大会3連覇がかかる林と激突した。結果は1アップで中村の勝利。前年、準決勝で敗れた雪辱を果たした。
1回戦では劇的な逆転劇があった。石井哲雄VS石井迪夫のいとこ同士の対決だ。15ホールを終えて石井迪が3アップ。しかし、石井哲が16番から3ホール連続で奪ってエキストラホールに持ち込み、21ホール目で勝負をつけた。これで勢いをつけた石井哲は2回戦で井上清次を6&5で一蹴。初めて準決勝に進出した。
3日目の準決勝は中村が石井朝夫を4&3で下し、もう1組は石井哲が島村祐正に3&2で勝利。決勝は中村と石井哲の顔合わせとなった。
この時、石井哲は27歳。生まれ故郷の静岡県を離れ、2年前から大会会場である広野GCでプロとしての修業を積んでいた。
決勝は好天の下で行われた。前半の18ホールを終えてオールスクエア。ゴルフ誌の『ゴルフマンスリー』は「ギヤラリーは90人位、ほとんどがホームコース石井選手声援の人人であつた」(原文のまま)と会場の様子を伝えている。 後半のアウトは両者とも3ホールずつ取ってなおオールスクエア。互いに一歩も譲らない熱戦となった。
28ホール目の10番パー4、中村は2打目をグリーン奥のバンカーに打ち込み、パーセーブした石井哲が一歩リードする。13番パー3、石井哲が花道から9番アイアンでのアプローチを放り込んでバーディー。2アップとした。中村は14番パー4で2打目をくっつけてバーディーを奪い、盛り返す。続く15番パー5では石井哲がティーショットを左の林に打ち込むピンチ。中村に流れが来たかと思われた。だが、4打目を寄せてパーをセーブした石井哲に対し、中村は3打目をミスしてボギー。ティーショットを終えた時点では圧倒的に分が悪かった石井哲がこのホールを奪い、残り3ホールで2アップとした。
16番パー4は互いにパー。そして迎えた17番、200ヤードを超える距離の長いパー3でまず石井哲が1オンする。後がない中村のティーショットは左のバンカーへ。中村はパーをセーブできず、2パットで収めた石井哲が3&1で初優勝をビッグタイトルで飾った。
広野GC所属プロで石井哲の先輩にあたる柏木健一が『ゴルフマンスリー』に観戦記を寄せているので、一部を抜粋してみよう。
「若冠石井哲雄君は関東方面では余り知る人も少ないが、今年の4、5月頃より相当堅実なプレイができ始め6月の関西オープンも一等をタイし決勝には敗れたが関西P.G.Aの月例にも7月より3回優勝している。悪くも2、3等には連続入賞している。以上の成績を揚げているのも、平素の摂生はもとより真剣な練習の賜と思います。」(原文のまま)。
『ゴルフマンスリー』は後日行った石井哲へのインタビューも掲載している。記者に優勝の感想を問われた石井哲は「今度の全日本プロの選手権を私が獲ち得たというのは全くの幸運でして、実力によるものではないと自覚しております。乾理事長始め先輩諸兄や関係者皆さんの御支援によるものと思つております」(原文のまま)と謙虚に答えている。
プロフィル
石井哲雄(いしい・てつお)1924~2012静岡県出身。石井三兄弟(治作、茂、哲雄)の末弟。関西を拠点に活躍した。1951年日本プロで初優勝を飾った後、関西オープンで2勝、関西プロで1勝を挙げている。シニアでも日本プロシニア、日本プログランドシニア、日本プロゴールドシニアなど多くのタイトルを獲得。谷口徹や田中秀道の師匠でもある。