第18回日本プロゴルフ選手権(1950年)
2019.09.30
林由郎が偉業、中1日で日本オープンとの2冠達成
終戦から5年たった1950(昭和25)年、日本オープンが再開された。前年には日本プロや関西プロ、関西オープンが復興。2年前の1948年には関東プロがいち早く再開されており、日本オープンをもって戦前から行われていたゴルフトーナメントはすべて復活した。1950年には関東オープンや東西対抗が創設されており、トーナメント数は戦前を上回る規模となっている。1950年の日本オープンは千葉県の我孫子GCで行われた。前年の11月に日本ゴルフ協会が再興されたことを受けての戦後初開催だった。日本オープンが行われたのは10月2、3の両日。地元出身で我孫子GC所属の林由郎が島村祐正を1打抑えて優勝した。林は1948年の関東プロ、1949年の日本プロに続き、戦後復興第1回大会をことごとく制する活躍ぶりだった。
日本プロは日本オープンからわずか1日空けただけの10月5日から始まった。会場は同じ我孫子GCである。この両大会が同一年に同じ会場で行われるのは初めてのことであり、これ以降もない。まさに空前絶後、異例中の異例のスケジュールだった。
大会には58人の選手が参加した。マッチプレーで行われる決勝トーナメントに進出する16人を決める予選は36ホールのストロークプレー。日本オープンを制したばかりの林が149で予選1位のメダリストに輝いた。勢いは継続していた。
日本オープンとの連勝、そして大会連覇に向けて林は決勝トーナメントも順調に勝ち上がった。1回戦では島田二郎を7&6の大差で破り、2回戦では寺本金一を2&1で撃破する。準決勝では5月の第1回関東オープンで5打差をつけられて負けた中村寅吉に3&2で雪辱。10月8日の決勝に進んだ。
決勝の相手は小野光一。前年の関東プロで初優勝を飾っており、こちらも勢いがあった。72ホールストロークプレーで実施された前年の日本プロで小野は林から2打差の2位だった。小野にとっては雪辱戦。白熱の好勝負が期待されたが、試合は“ホーム”である林のワンサイドゲーム。日本プロ決勝史上最多差となる9&7であっさりと勝負を決めた。林は後に自著『自由自在のゴルフ人生』(講談社)で「いまから思い出しても、やることなすことがすべてうまくいった。破竹の勢いとは、まさにこのことだろうな。」と述べているほどの内容だった。
中1日での日本タイトル2冠と大会連覇。復興への道を歩き始めたばかりの日本プロゴルフ界で林の存在は限りなく大きなものとなった。
プロフィル
林由郎(はやし・よしろう)1922~2012千葉県出身。子供のころに自宅近くの我孫子GC(千葉県)でキャディーを始め、その後プロとなる。戦後初のプロ競技となった1948年の関東プロで初優勝を飾り、49年日本プロ、50年日本オープンと戦後の第1回大会を次々に制していった。日本プロ4勝、日本オープン2勝などの実績に加え、青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇(日本男子ツアー)、海老原清治(欧州シニアツアー)、福嶋晃子(日本女子ツアー)と6人もの賞金王・女王を育てた名伯楽としても名高い。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。