第16回日本プロゴルフ選手権(1942年)
2020.01.08
“4度目の正直”で陳清水が大会初優勝
前年の12月に口火を切った太平洋戦争は1942(昭和17)年に入って激しさを増してきた。戦線が拡大する一方で6月にはミッドウエー海戦で日本海軍は虎の子の空母4隻と多くの熟練パイロットを失い、戦局に大きな変化が出てきた。スポーツ界では現在の日本スポーツ協会にあたる大日本体育協会が国の機関に組み込まれ、ゴルフや野球など敵国起源とされる競技は「敵性スポーツ」として排斥されそうな立場に追い込まれていた。
ゴルフの窮地を救ったのは当時の日本ゴルフ協会理事長である石井光次郎だった。日本ゴルフ協会70年史によると、石井はゴルフの起源を奈良時代の祭事である打毬(たぎゅう)に求め、「ゴルフは日本古来の由緒ある競技」と力説。軍部を納得させたという。
前年は政府の「全国的行事は政府主催でないものは開催しないように」というお達しで中止となっていた日本プロがこの年に復活。8月26日から小金井CC(東京都)で開催された。徴兵されるプロゴルファーが相次いでいたが、42人が出場した。
従来はストロークプレーの予選を行い、マッチプレーで争う決勝トーナメントの出場者16人を決めていたが、この年は最初から42人によるマッチプレーだった。
日本プロ優勝4回の宮本留吉が初戦で敗れ、優勝2回の浅見緑蔵は3回戦で姿を消した。4強に残ったのは台湾出身の陳清水、旧満州出身の小野光一、韓国出身の延徳春、そして国末繁という顔ぶれ。誰が勝っても大会初優勝だった。
前年の日本オープン覇者・延と小野の対戦は36ホールでは勝負がつかず、延長1ホール目で延が勝利。初めて決勝に駒を進めた。陳と国末の対戦は陳が2アップで勝利を飾った。 陳の決勝進出は実に4度目である。最初はまだ21歳だった1931年。浅見に6&5で大敗した。2度目は1935年。ここでも戸田藤一郎に7&5と大差をつけられて敗れた。3度目は1937年。上堅岩一と激戦を繰り広げたが36ホール目で短いパットを外して涙を飲んだ。
4度目の決勝は、それまでのうっぷんを晴らすかのようなプレーをみせた。7&6で延を圧倒。ついに日本プロのタイトルをつかみ取った。
戦況が厳しくなってきた翌年から日本プロは中止となった。再開されたのは1949年。6年の空白期間を経てからだった。
プロフィル
陳清水(ちん・せいすい)1910~1994台湾出身。淡水GCでキャディーを経てプロとなる。1927年に程ヶ谷CC(神奈川県)で修業するため来日して浅見緑蔵の下で7カ月ほど学ぶ。その後再来日して日本に定住した。1936年のマスターズで戸田藤一郎とともにアジアの選手として初めての出場を果たし、20位に入っている。日本プロ2勝(1942、53年)、日本オープン1勝(1937年)、関東プロ3勝(1934、35、56年)。1973年に日本に帰化している。