第15回日本プロゴルフ選手権(1940年)
2019.07.16
準決勝で林万福(右)を破った戸田藤一郎(ゴルフドム1940年10月号=日本ゴルフ協会所蔵=より)
戸田藤一郎が大会史上初の3連覇達成
世界的に戦火が拡大し、日独伊三国同盟が締結された1940(昭和15)年の日本プロは初めて九州で開催された。会場は福岡CC大保コース(パー72)。1926年に九州で2番目のゴルフ場として開場している。同コースはその後、戦争の影響で閉鎖。存在したのは20年に満たなかったが、九州にゴルフ文化を根付かせる大きな役割を果たした。ゴルフ誌の『ゴルフドム』は「大保コースは小金井に似たところがあり、フェアウエーの至る所にクリークが多い。四辺稲田に囲まれ、ローカルカラー豊なるものあり」(一部現代語訳)とコースの様子を伝えている。9月16日、57人が参加して36ホールの予選ラウンドがスタートした。予選1位のメダリストに輝いたのは1アンダー、143で回った台湾出身の林万福。大会連覇中の戸田藤一郎は4オーバー、148の4位で決勝トーナメントに進んだ。
2日目は予選を通過した16人によるマッチプレー、1、2回戦が行われた。戸田は1回戦で2年前の決勝の相手だった井上清次を2&1で退けると2回戦では寺本金一を6&4で一蹴。大会史上初の3連覇に向けて順当に勝ち上がった。
18日は北白川宮永久王殿下葬儀のため喪に服して競技は中止。翌19日に36ホールマッチの準決勝が行われた。戸田の相手は予選メダリストで2年前の日本オープンチャンピオン、そして2週間前に関東プロ3勝目を飾ったばかりの林。戸田は前年、日本プロ、日本オープン、関西プロ、関西オープンと史上初めて年間4冠を達成している。当時、最も勢いのある2人が激突したわけだ。
戸田が1、4番でバーディーを奪うなどして一時は5アップまでリードを広げる。林が少し盛り返し、戸田の3アップで迎えた前半最後の18番で林が技を魅せた。決めればこのホールを取れるというパットはライン上に戸田のボールがあるスタイミーの状況(編注:当時はマークして拾い上げることはせずそのまま打つ規則)だった。林はここでカット気味に打ってボールに右回転をかけ、見事に戸田のボールを迂回してカップイン。ギャラリーからも大きな拍手をうけた。
2ダウンに戻した林は午後のラウンドで俄然勢いを増し、逆転。10番を終えて2アップとした。窮地に追い込まれた戸田がここから反撃する。11番でカラーから決めてバーディー。逆にチャンスにつけていた林が外してしまう。これで流れが変わった。12番では林が3パットしてマッチイーブン。14番で戸田が長いパットを決めて再逆転だ。林も負けじと15番を取り返してまたもやマッチイーブンとなった。16番、戸田がグリーンを外しながら寄せてパーを拾う。対して乗せていた林が3パット。立場が目まぐるしく入れ替わる激戦となった。17番を分け、戸田1アップで迎えた36ホール目の18番、戸田のティーショットは大きく曲がったが木に当たってOBを免れる。この幸運を生かしてこのホールを分けた戸田が決勝への切符を手にした。戸田は『ゴルフドム』にて「一番苦心したのは林君との準決勝でした。林君も今は非常に当たっていますので全く油断の出来ない試合でした」(一部現代語訳)と語っている。
もうひとつの準決勝は村上義一と藤井武人の対戦だった。福岡出身の藤井は大保コース育ち。当時は関東に拠点を移して“武者修行中”だったが、故郷での大一番に一層気合が入っていたであろうことは想像に難くない。準決勝は午後のラウンドで一時、村上に追いつかれたが7番から一気に突き離し、6&5で快勝した。
戸田と藤井の決勝は20日午前9時にスタートした。藤井への声援が多い中、戸田は1、2番で連続バーディーを奪うなど着実にリードを広げていく。午前の18ホールを終えて戸田が5アップと圧倒的優位に立つ。後半も藤井の反撃を許さず6&5で大会史上初の3連覇を成し遂げた。「藤井君との決勝では、私のショットが自分ながら良過ぎたように思います」(『ゴルフドム』より。一部現代語訳)と戸田自ら言うように、脂の乗り切った素晴らしいゴルフを見せつけた。
無敵ともいえる戸田の進撃はどこまで続くのか。しかし、大会4連覇がかかった翌1941年の日本プロは戦時色が強くなった影響で全国的行事は政府主催でない限り開催できないこととなり中止となった。太平洋戦争開戦後、日本プロは1942年に1度だけ再開されたが、そこには戸田の姿はなかった。
プロフィル
戸田藤一郎(とだ・とういちろう)1914~1984兵庫県出身。1933年、18歳で関西オープンに勝ち、19歳で関西プロ、20歳で日本プロと若くして数々のタイトルを獲得。39年には日本プロ、日本オープン、関西プロ、関西オープンに勝ち、当時の年間グランドスラムを達成した。年齢を重ねてからも存在感を示し、63年には48歳の大会最年長で日本オープンに優勝し、71年には56歳で関西プロを制している。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。