第13回日本プロゴルフ選手権(1938年)
2019.05.07
優勝した戸田(左)と2位の井上(ゴルフドム1938年10月号=日本ゴルフ協会所蔵=より)
空白の1年を経て、戸田時代が幕を開けた
10代で関西オープンと関西プロを制し、20歳で日本プロ王者となった戸田藤一郎が最も輝いたのが1938(昭和13)年からの3年間であろう。この期間、戸田は日本プロと関西プロで3連覇を達成し、日本オープンは1勝、2位2回、関西オープンでは2勝を挙げている。関西オープンは1940年の大会が中止になっているから2戦2勝。つまり、この4大会で11戦9勝2位2回という超人的な成績を残しているのだ。黄金期が始まる前年の1937年、戸田はトーナメントに出場していない。当時のメディアは「所属の廣野GCから謹慎処分を受け、試合出場が許されなかった」と報道している。その間、戸田は何をしていたのか。明確な記録は見つかっていないが、アメリカに渡って単身で武者修行をしていたという説もあるほど、謎の多い空白の1年だった。
表舞台に戻った1938年の戸田は5月に関西オープンを制し、復帰戦を最高の結果で飾った。8月には関西プロ決勝で行田虎夫を10&9の大差で下し、関西両タイトルを手中にする。そして9月、兵庫県の宝塚GC(パー70)で行われた日本プロに臨んだ。
40人の選手が、決勝トーナメントに進める16枠をかけて36ホールストロークプレーで争った初日、メダリスト(予選1位)最有力と見られていた戸田は73、75の平凡なスコアで10位に甘んじた。あと2打悪ければ予選で姿を消すところだった。大阪朝日新聞は「戸田、意外の不振」と見出しを打っている。メダリストは67、67とコースレコードタイの好スコアを連発した台湾出身の林万福。2位に7打差をつける圧巻のプレーだった。
戸田はマッチプレーに入ると当たりを取り戻した。1回戦で田畑真次を3&1で下し、2回戦では前年優勝者の上堅岩一を7&5で一蹴。難なく準決勝に駒を進めた。予選メダリストの林は1回戦で宮本留吉に敗れ、その宮本は2回戦で井上清次に苦杯を喫した。
36ホールマッチの準決勝、戸田は延徳春に対して1番を失うが、2、3番を連取してペースをつかむと以降は一度もリードを許さず4&2で3年ぶりの決勝進出を決めた。もう一方のマッチは井上が接戦の末に藤井武人を1アップで撃破。初めて決勝に進んだ。
9月15日、決勝は9時30分にスタートした。この時、戸田は23歳。井上は戸田より1学年下の22歳だった。後に日本プロや関東プロに勝つ井上だが、当時はまだタイトルのない若手。年齢こそ近いとはいえ、戸田との実績の差は明らかだった。
前半の18ホールを3アップで折り返した戸田は風が強くなってきた午後のラウンドでさらにリードを広げていく。8番からは3ホール連続奪取で突き放し、13番を奪って7&5で勝負を決めた。3年ぶり2度目の日本プロ制覇は大会史上初の3連覇への第一歩でもあった。
ゴルフ誌の『ゴルフドム』は「戸田のボールは先年に比して一段と低くなり、やや高い井上のボールに比べて風に対して相当強力であったことも見落とせない事実であった」(一部現代語訳)と戸田のショットが進化したことを述べている。戸田の代名詞といえるパンチショットをこの時期に会得していたことをうかがわせる一文だ。空白の1年を経て一層、強くなった戸田。黄金期が幕を開けた。
プロフィル
戸田藤一郎(とだ・とういちろう)1914~1984兵庫県出身。1933年、18歳で関西オープンに勝ち、19歳で関西プロ、20歳で日本プロと若くして数々のタイトルを獲得。39年には日本プロ、日本オープン、関西プロ、関西オープンに勝ち、当時の年間グランドスラムを達成した。年齢を重ねてからも存在感を示し、63年には48歳の大会最年長で日本オープンに優勝し、71年には56歳で関西プロを制している。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。