第12回日本プロゴルフ選手権(1937年)
2019.01.15
1937年9月17日付大阪毎日新聞
予選最下位からの戴冠。伏兵・上堅岩一が初優勝
1937(昭和12)年7月、盧溝橋事件に端を発して日中は戦争状態に入った。ゴルフ界にも大きな影響があり、浅見緑蔵が招集を受けた。浅見にとって2度目のことだった。よって9月13日から千葉県の鷹之台CC(パー74)で行われたこの年の日本プロに浅見は出場していない。前年、同CC開催の関東プロを制していた優勝候補が舞台にすら立てなかった。2年前の日本プロ覇者・戸田藤一郎も欠場している。さらに、2年連続5度目の優勝がかかる宮本留吉は出場したものの病み上がりという状態だった。宮本は夏前に急性腎炎を患い、日本オープンなどを欠場。ようやく動けるようになったのが日本プロの直前だったのだ。相次ぐ強豪の不在や不調で混沌とする中、46選手が36ホールの予選に挑んだ。トップ通過のメダリストに輝いたのは6月の日本オープンを制していた陳清水だった。午前のラウンドを75にまとめると、午後は3アンダーの71をマーク。通算2アンダー、146で2位の島村祐正を1打抑えた。3位は7月に関西オープン、8月には関西プロに勝ち、勢いのあった村木章。久しぶりのトーナメントとなった宮本は午前中80と乱れたものの、午後は73と盛り返して9位グループで決勝トーナメントに駒を進めた。予選を通過できるのは16人。15位で並んだ6選手が残りの2枠をかけたプレーオフを行い、上堅岩一と小池国喜代が勝ち上がった。
1回戦でメダリストの陳は小池を4&3で一蹴。宮本は1回戦で姿を消した。予選2位の島村はプレーオフからはい上がってきた上堅に苦杯を喫する。上堅にとってこれが日本プロで初めての決勝トーナメントだった。だが、そんな経験不足を感じさせないプレーを展開し、アウトは3バーディー、ボギーなし。大きくリードを奪う。インで島村が逆襲するが上堅が15、16番を取って、3&2で金星を挙げた。
上堅の勢いは続いた。2回戦では実力者の中村兼吉を延長の末に破って準決勝進出。石井治作との36ホール勝負を5&4で制してついに決勝まで勝ち進んだ。
決勝の相手は陳清水である。陳は2回戦で田畑真次を3&2、準決勝では発智恭次を9&7と危なげないプレーで勝ち進んできた。陳にとって2年ぶり2度目の決勝戦。前回は戸田に大敗を喫しており、初優勝、そして日本オープンとの2冠がかかる戦いとなった。
9月16日の決勝は朝から風を伴った冷たい雨に見舞われた。実績では陳が断然リード。ゴルフ誌の『ゴルフ』は「この両人は初顔合わせであるが、陳の優勝を予想する向の多かったことは当然である」(一部現代語訳)と陳有利との見方が多かったことを伝えている。
前半の18ホールは陳が7ホール、上堅が6ホールを奪うという壮絶な“打ち合い”の末、陳が1アップとリード。風雨の影響でスコアは両者とも80前後という苦戦だった。
後半の1、2番を上堅が連取して逆転。6番で陳が第2打をOBにして上堅が2アップとするが、続く7番で陳がバーディーを奪ってすぐに1アップに戻った。
風雨がますます強まり、2人はさらに苦しいプレーを強いられる。10番はボギーの上堅が取る。上堅は12番も奪ってこの日最大となる3アップにまでリードを広げた。しかし、優勝が見えてきたことで重圧が増したのか、13番からの3ホールのスコアは6、6、7であっという間にリードがなくなってしまった。迎えた16番パー3、陳からすればこの流れのまま突き進みたいところだったがティーショットをバンカーに入れてしまう。上堅もグリーンを外したが寄せてパー。陳はパーをセーブできず、再び上堅がリードした。
17番は両者パーで分け。そして18番、陳は短いパットを外して万事休す。上堅が大会初優勝を飾った。『ゴルフ』は戦評記事の見出しに「ダーク・ホース上堅選手優勝」と打っている。そして、その戦評を「陳は午前1アップしたが、試合は押され気味であった。上堅はしばしばダウンのピンチを見事なバンカーショットとパットで切り抜けていたのは特に彼の勝因として挙げてもよいだろう」(一部現代語訳)という言葉で締めている。『ゴルフ』によると上堅は36ホール中1パットで収めたのが11ホールあった。対する陳は1パットが6回。厳しいコンディションの中で粘り抜いた上堅に軍配が上がった形といえる。
相次ぐ強豪の不在、不調の中で始まった大会は新しいチャンピオンを生んだ。上堅は宮本と同じ茨木CC(大阪府)所属。後に宮本は自著『ゴルフ一筋~宮本留吉回顧録~』でこの大会について「私の弟子の上堅岩一が勝ち進み、決勝で陳清水君を1アップで破り優勝したのがうれしかった」と記している。