第11回日本プロゴルフ選手権(1936年)
2017.04.17
1936年9月18日付、東京日日新聞
宮本留吉が貫録の大会4勝目
第1回大会以来、関西か関東で行われていた日本プロが初めて他の地域で開催されたのが1936(昭和11)年のことだった。会場は中部地区で最も歴史のある愛知県の名古屋GC和合コース(6510ヤード、パー70)。開場は1929年。大谷光明が設計を手掛けている。9月14日、48人の選手が36ホールストロークプレーの予選に挑んだ。ゴルフ誌のゴルフドムは「干ばつのため、グリーンもフェアウエーも乾ききっていたので、このコースの最良のコンディションとは言い得なかった」(現代語訳)と記している。予選1位のメダリストは4オーバー、144で回った宮本留吉。20歳の中村寅吉が10位で初めての決勝トーナメント進出を果たしている。一方で大会3勝目を目指した浅見緑蔵、6月に関西オープンを制していた上堅岩一といった有力選手が姿を消し、ゴルフドム誌は「荒れた予選」と表現している。
1、2回戦が行われた15日も番狂わせが相次いだ。マスターズ20位、全米オープンで予選通過と米国遠征で存在感を示した陳清水が1回戦敗退。陳とともに米国遠征していた前年優勝者の戸田藤一郎も1回戦で敗れ去ったのだ。
そんな中、第一人者の宮本は着実に勝ち進んでいた。1回戦は川井誠作を7&5で一蹴。2回戦ではベテラン安田幸吉を5&4で打ち破った。
翌日の準決勝、宮本は小池国喜代と対戦した。前半の18ホールは小池が食らいついてオールスクエアでターン。後半のスタートホールを小池が取って宮本は1ダウンとなった。しかし、3番で小池が短いパットをミスして宮本が奪うと、そこから宮本が4ホール連続奪取。一気に流れを引き寄せて5&3で決勝に進んだ。もう1試合は1回戦で戸田を破って勢いに乗る森岡二郎が石井治作を終盤で逆転し、1アップで勝利。関西オープン4勝、関西プロ1勝の実力者が初めての日本タイトルに王手をかけた。
宮本、森岡の両者が日本プロ決勝トーナメントで顔を合わせるのは1932年1回戦以来だった。この時は森岡が4&3で宮本を破っている。
快晴微風という好天の中、決勝は午前9時30分にスタートした。前半の18ホールは互いに5ホールずつ取ってのオールスクエア。白熱した展開となった。だが、後半の1、2番で森岡が立て続けに短いパットをミス。宮本の2アップとなる。3番は宮本がボギーで落とすが、5番から3ホール連続奪取。4アップとリードを広げた。宮本は9番をボギーとして3アップとなったが、11、12番で森岡が連続ボギーで5アップとなる。13番で森岡がバーディーを奪って差を1つ縮めるがそこまで。14、15番を共にパーで分け、4&3で宮本に凱歌があがった。ゴルフドム誌は勝負が決まった瞬間を「森岡はボールを拾って宮本に渡した。固い握手がかわされた。劇的の一瞬、万雷の拍手は起こった」(現代語訳)と表現している。終わってみれば予選メダリスト、決勝トーナメントは4試合とも危なげない勝利とまさに第一人者の貫録を示した形だった。
宮本にとって2年ぶり4度目の、そして最後の日本プロ制覇。4勝は1993年に尾崎将司が5勝目を挙げて抜かれるまで、長きにわたって大会最多勝として刻まれていた。
プロフィル
宮本留吉(みやもと・とめきち)1902~1985兵庫県出身。小学生のころに神戸GC(兵庫県)でキャディーとして働きながらゴルフを覚えた。1925年に茨木CC(大阪府)でプロとなる。日本プロは第1回大会を含めて通算4勝、日本オープンは大会最多の6勝を挙げている。また、海外遠征の先駆者として道を拓き、32年の全英オープンで日本人選手初のメジャー出場を果たしている。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。