第10回日本プロゴルフ選手権(1935年)
2015.12.07
1935年10月27日付東京日日新聞
圧勝に次ぐ圧勝で頂点に立った20歳の若武者
わずか6人で始まった日本プロは第10回の節目となった1935(昭和10)年には出場者が50人にまで増えていた。我が国にプロゴルファーという職業が確実に根付いてきたことを示す数字である。会場は神奈川県の相模CC(パー73)。大会初日の10月23日は36ホールのストーロクプレーによる予選が行われ、上位16人が翌日からのマッチプレーに駒を進めた。
トップ通過は3アンダー、143の好スコアをマークした中村兼吉だった。中村は2年前の日本オープンチャンピオン。この年には6人の米国遠征メンバーにも名を連ね、全米オープンでは日本勢で唯一予選通過を果たしている。これがメジャーにおける日本人選手初の予選通過という快挙だった。
予選2位は145の戸田藤一郎。林万福が149で3位につけ、宮本留吉と浅見緑蔵が150で続いた。
2日目は18ホールマッチプレーによる1、2回戦が行われた。予選1位の中村は1回戦で安田幸吉に惜敗。2回戦で激突した宮本と浅見の好カードはオールスクエアから17、18番を連取した浅見に凱歌があがった。準決勝に進んだのは浅見、陳清水、小池国喜代と戸田の4人。戸田は2年連続の準決勝進出だった。
36ホールで争う準決勝の組み合わせは浅見―陳、戸田―小池だった。前年、同じ相模CCで行われた関東プロを制していた陳は3&2で浅見を撃破。4年ぶり2度目の決勝進出を果たした。戸田は最初の18ホールで68をマークするなど8&7で小池を圧倒。前年涙を飲んだ準決勝を突破し、初の決勝へと進んだ。
この時、戸田は20歳の若さだったが、すでに関西オープンと関西プロを制するほどの力を備えていた。陳は25歳。日本での修業で徐々に腕を上げ、日本代表として米国遠征に加わるまでに成長していた。
36ホールの決勝は戸田が1、2番を連取する幸先のいいスタートを切る。インでは実に5バーディーを奪う猛攻で陳を圧倒。18ホールを終えた時点で6アップのリードを奪った。後半に入ってアウトで陳は1アンダーの35で回るが差をひとつ縮めただけ。インに入ると戸田が12、13番を奪い、7&5で初優勝を飾った。
圧巻のゴルフで日本プロを制した戸田を、ゴルフ誌のゴルフドムは「調子に乗って相手にノシかかるように迫る気迫の物凄さとスマートな歩みは猛禽中の小意気もの隼の感があった」(一部現代語訳)と記している。一方で大敗を喫した陳を「猛禽に狙われた白鷺か兎かのように哀れに見えた」(一部現代語訳)と表現。それくらい、両者の勢いに差があったということだろう。また、同誌は「この日の戸田は前日の小池との対戦に示した如く第一打をよく打ってオーバードライブし、更に第二打の正確なことに於いて遥かに陳より優っていた」(一部現代語訳)とも評している。小柄な戸田が長身の陳を上回る飛距離だったことが分かる記事である。
戸田はこの後、1938年から大会3連覇を達成。太平洋戦争直前の数年間は無敵ともいえる存在にまで上り詰めた。
プロフィル
戸田藤一郎(とだ・とういちろう)1914~1984兵庫県出身。1933年、18歳で関西オープンに勝ち、19歳で関西プロ、20歳で日本プロと若くして数々のタイトルを獲得。39年には日本プロ、日本オープン、関西プロ、関西オープンに勝ち、当時の年間グランドスラムを達成した。年齢を重ねてからも存在感を示し、63年には48歳の大会最年長で日本オープンに優勝し、71年には56歳で関西プロを制している。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。