第22回日本プロゴルフマッチプレー選手権(1996年)
2021.08.16
1996年9月2日付スポーツニッポン新聞
芹澤信雄がプロ15年目で初の公式戦V
北海道・ニドムクラシックCニスパC(6989ヤード、パー72)で8月29日から4日間行われた。1回戦組み合わせで注目を集めたのは、川岸良兼と丸山茂樹の若手「怪物対決」。また、前週のワールドシリーズで第1日首位に立つなど売り出し中の若手、田中秀道が初参戦と、世代交代を感じさせる大会になった。海外では、8月28日(日本時間29日)に、20歳のタイガー・ウッズがプロ転向の記者会見を行っている。
第1日の1回戦18ホール、川岸―丸山の対戦は前半、シーソーゲームになった。川岸1アップで迎えた10番、川岸が「思いのよらぬ方向に行った」(日刊スポーツ紙)というミスショットでイーブンとなってから丸山のペースに。12,13番を連続で取り、2-1で逃げ切った。スポーツニッポン紙によると、丸山はワールドシリーズからの帰国直後に発熱、治療を受けての出場で「ふらふらだった。先輩(日大)のパットが悪くなかったら負けていた。勝たせてもらいました」と話した。川岸は「9番でアドレスがおかしくなって何が何だか分からなくなってしまった」と肩を落とした。
田中は桑原克典と同じ中部地区の対戦になり、一進一退の展開も常に先手を取っていた田中が16番のバーディーでリードし、最終18番も取って2アップで初勝利を挙げた。
第2日は2回戦と準々決勝(各18ホール)。丸山の進撃が止まらない。2回戦で木村政信を圧倒。7-6の大差で勝ちあがって、準々決勝は過去3度の優勝を誇る中嶋常幸(登録名中島)と対戦した。序盤、2番から3連続アップで波に乗った。ショット好調で中嶋に3度ギブアップでのアップを勝ち取るなど、6-4でベスト4に進んだ。中嶋は「素晴らしいゴルフをした。このゴルフならジャンボも勝てないよ」と日刊スポーツ紙では絶賛している。日本タイトルで5年シードを取り、海外挑戦を描く丸山は「中島さんの体調が悪かったから」と控えめに勝因を挙げたが、「20代(当時26歳)に絶対取りたいタイトル」と意気込んだ。
米ツアー帰りの佐々木久行が2回戦で河村雅之、準々決勝で宮瀬博文と若手2人をともに2-1と苦しみながらも下して4強入りした。日本シリーズ、日本プロを制しており、このタイトルを取れば日本3冠目。「前日の良かったイメージを壊さないため」と練習なしでスタートしたのが、思惑通りになった。
芹澤信雄(登録名芹沢)とブラント・ジョーブが勝ちあがり、ベスト4が決まった。
第3日準決勝(36ホール)は、芹澤―佐々木、丸山―ジョーブの対戦になった。
芹澤と佐々木は激闘になった。前半18ホールは、取ったり取られたりの攻防が続き、午前18ホールを終えてイーブンで折り返した。午後、まず佐々木は19ホール目でイーグルを奪ってリードするが芹澤もすぐ取り返す。30ホール目で3アップとした芹澤の逃げ切りかと思われたが、佐々木が反撃。31ホール目でバーディー、34ホール目に芹澤のミスで差を縮め、最終36ホール目でバーディーを奪って土壇場でイーブンに戻した。エキストラホールは37、38ホール目で芹澤が1メートルほどの微妙なパーパットを沈め、39ホール目を互いにバーディーで分けて譲らず、史上最長の40ホール目に突入。197ヤード(パー3)で佐々木が先に1.8メートルにつけ、芹澤はピン手前4メートルほど。「入れないと負ける」(日刊スポーツ紙)と芹澤が集中して決め、それを見た佐々木が外した。8時間2分の激闘で芹澤が初の決勝進出を果たした。芹澤は午後のラウンドで左足がつりそうになって「棄権したらシャレにならない」と必死だったという。佐々木は「勝ちたかったが、3ダウンからよく追い着いた」と納得の表情だった。
丸山―ジョーブも最終36ホール目までもつれ込んだ。1番パー5で丸山がイーグルでアップして幕開け。ともにバーディーでホールを奪い合う展開になり、午前の18ホールは丸山1アップで折り返した。午後になってジョーブが19ホール目から3連続アップで逆転。しかし、追いついた丸山が27ホール目にバーディーを奪ってまた逆転、ラスト9ホールへ。互いに取り合った後、33ホール目に丸山が左にOBをうち、ジョーブが追い着いてイーブンで終盤に。36ホール目でアクシデントが起こる。先にジョーブがティーショットをした際に、ギャラリーが禁止されている写真撮影し、しかもフラッシュがたたかれた。ショットを右に曲げたジョーブが激怒。競技委員を呼んで訴えた。結果は変わらないが、その間待たされた丸山。「怒るなら僕のティーショットが終わってからにしてよ。あれで集中力が切れてしまった」と、第2打をミスしてボギーとし、ジョーブが1アップで決勝進出を決めた。丸山は「僕が甘い。でも3位ですし」と3年連続4強入りを評価した。
最終日の決勝(36ホール)は、雨で気温も20度を切る中での戦いになった。1番パー5をともにボギーで分ける滑り出し。前半はともに4アップずつのイーブンで折り返す。動き始めたのは20ホール目。芹澤が9メートルのバーディーを沈めて1アップとリード。22ホール目でも8メートルのバーディーを沈めて2アップ。「午後になってパットの調子が良くなってきた」と振り返るように、ジョーブにプレッシャーを与えた。31ホール目までに4アップとリードを広げたが、試合後スポーツニッポン紙に「あとはパーでも勝てると思って弱気になってしまった」と振り返ったように、ジョーブの反撃を受ける。35ホール目に1アップまで追いつかれた。
最終36ホール目、先にバーディーパットを外したジョーブのボールをOKにして、自身の4メートルのバーディーパットを20センチに寄せ、なんとか振り切った。「最後は開き直りました。この日一番のセカンドショットを打てた」と、話している。プロ15年目、中堅選手として人気も高かったが、日本タイトルには縁がなかった。「ゴルフがこんなつらいスポーツと思ったのは初めて」と、いうのは苦しい戦いの連続だったからだろう。優勝までの最多所要ホール数タイを記録。1984年の中村通と並ぶ、1回戦から計125ホールを要しての優勝だった。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
芹澤信雄(せりざわ・のぶお)1959年11月10日生まれ、静岡県出身。御殿場西高時代はスキー・アルペンの選手で国体代表などにもなっている。18歳からプロを目指してゴルフを始め、1982年に4回目のプロテストに合格した。1987年の日経カップ中村寅吉メモリアルでツアー初優勝。日本プロマッチプレーなど通算5勝を挙げている。弟子の育成にも力を入れ、藤田寛之、宮本勝昌など「芹澤軍団」と呼ばれてツアーで活躍している。シニアツアーでは1勝を挙げている。