第8回日本プロゴルフ選手権(1933年)
2014.12.01
1933年10月5日付、東京日日新聞
モンテス旋風が吹き荒れ、史上初の連覇達成
日本プロに初めて出場した海外選手は1930(昭和5)年の第5回大会における台湾の陳清水(後に日本に帰化)だった。陳は優勝した村木章に19打差をつけられたが2位に食い込んでいる。翌年には同じ台湾から林万福も参戦。そして32年にはフィリピンから来日したラリー・モンテスが旋風を巻き起こした。日本プロゴルフ協会30年史には「突如、フィリピンのプロゴルファー、ラリー・モンテスが来日、ほどなく10月に鳴尾ゴルフ倶楽部猪名川コースで開催された日本プロ選手権に出場。予選で当時全盛の宮本留吉に2打差、浅見緑蔵に3打差をつけてメダリストになるや、上田悌造に4-2、準決勝では関東プロ選手権者の中村兼吉に8-7の大差で圧勝、さらに決勝では、地元鳴尾所属の森岡二郎を4-3と下して優勝してしまったのである。このモンテスの活躍は、それまで宮本留吉・浅見緑蔵・安田幸吉の3人を中心に動いていた日本のプロゴルフ界に大きな衝撃を与えた」と書かれている。
30年史によるとモンテスは当時21歳。マニラGCのキャディーからキャディーマスターとなり、来日までにフィリピン・オープンに3度優勝していたほか、米国で武者修行してボビー・ジョーンズの指導も受けており、「その華麗で繊細な技術は当時の日本のプロの未だ及ばざるものがあった」とモンテスが与えた衝撃を綴っている。
来日したきっかけも記載されている。29年に宮本留吉と安田幸吉が日本人プロ初の海外遠征として出向いたハワイアンオープンで彼らに会い、日本のゴルフ事情を知ったことがきっかけ。モンテスが拠点にしていたマニラは年間のほぼ半分が雨季でプレーができないことが多いため、その期間は日本でやろうという思惑だったようだ。
モンテスはその後、霞ヶ関CC(埼玉県)所属となる。迎えた翌年の日本プロでモンテスはまたも格の違いを見せつけた。
会場は神奈川県の藤沢GC(パー73)、40人のプロが参加した。覇権を争うマッチプレーに進出できるのは上位8人である。モンテスは1日36ホールの予選を75、75の150で回り、宮本留吉と並んで4位で通過。予選1位は146で回った浅見緑蔵だった。
大会2日目は強い風が吹く難しいコンディションだった。マッチプレー1回戦の相手は宮本留吉。前半の9ホールは宮本が1アップだったが、10番からモンテスが6ホール連取。5&3で勝利を収めた。
2回戦(準決勝)の相手は浅見。1番ホールで浅見は幸先良くバーディーを奪ってリードするが、その後はモンテスが実力を発揮。こちらも5&3の大差で勝ち進んだ。
東京日日新聞はこの日の様子を「朝からの強風でアゲンスト・ウインドに経験乏しいわが国のプロは各ショット意の如くにならず」(一部現代語訳)と記している。決勝の相手は台湾の林万福。日本選手は姿を消し、海外勢同士の決勝となったわけだ。
36ホールの決勝は好天に恵まれた。東京日日新聞は「絶好のゴルフ日和にて早朝より多数のギャラリーがつき盛況であった」(一部現代語訳)と報じている。
先手を取ったのはモンテスだった。2番でバーディーを奪ってリードすると6番、8番、10番と次々にホールを奪って差を広げていく。ようやく林が一矢を報いたのは12番だった。
前半の18ホールはモンテスの4アップで折り返す。後半最初の9ホールは互いに1ホールずつ取って差は変わらなかったが10、11番でモンテスが立て続けにバーディーを奪って6アップ。12、13番は分けて、6&5で林に圧勝した。
ゴルフ誌のゴルフドムは「林は常にいいティショット、いいセカンドショットを持ってモンテスを凌駕していたにもかかわらずモンテス一流の玄妙なるパットに追従し得ず、度々勝つべき多くのホールをパットのミスでタイとなりあるいは逆に敗れた」(一部現代語訳)と評している。モンテスがパッティングの名手であったことをうかがわせる記事だ。
大会連覇は初めてのこと。この2年間でモンテスはマッチプレーを6ゲーム戦い、計30アップ。まさに他を寄せ付けない強さだった。
翌34年の日本プロに大会3連覇を目指すはずのモンテスの姿はなかった。所属していた霞ヶ関CCを解雇となり、母国に帰ったからだ。解雇の理由は、不明である。