第45回日本オープンゴルフ選手権(1980年)
2023.11.13
日本オープンで初優勝を飾った菊地勝司(JGAホームページより転載)
世界の青木を抑え、伏兵の菊地勝司が初優勝
ゴルフのトーナメントは時に予想もしていなかったチャンピオンを生み出すことがある。1980(昭和55)年の日本オープンがまさにそうだった。この年、プロゴルフ界の話題を独占していたのは青木功だった。国内では春先から勝ち星を重ねて3年連続賞金王に向けてひた走り、海外では全米オープンでジャック・ニクラウスとの激闘の末に2位。世界的にその名を轟かせていた。もちろん、相模原ゴルフクラブ東コース(神奈川県。6638m、パー74)で行われた日本オープンでは優勝候補の本命である。
だが、青木は初日78と乱れて49位と出遅れた。過去2位が3回。まだ手にしていないタイトルへの重圧が名手の手元を狂わせたのか、パットが思うように決まらなかった。
5アンダー、69をマークして首位に立ったのは予選会を突破して出場権をつかんだツアー未勝利の菊地勝司だった。
2日目、青木が本領を発揮する。3連続バーディーを奪うなど、この日のベストスコアタイ、70をマークして通算イーブンパーの9位に浮上した。
首位で出た菊地はアクシデントに見舞われる。4番から5番への移動中、パターのヘッドを何気なく地面にコンとぶつけた時にネックの部分からポッキリと折れてしまったのだ。幸い、駐車場が近かったので自分の車から別のパターを持ってきてプレー続行。73にまとめ、通算6アンダーで首位を守った。
3日目も菊地はパープレーの74と踏ん張った。川田時志春に追いつかれはしたが、依然首位である。3打差の3位は前年覇者の郭吉雄。青木は74と足踏みし、順位こそ6位に上がったが首位との差は6打のままだった。
最終日の気象条件は北の風9.5mと記録されている。木が揺らぐほどの強風だった。菊地も青木も強風に抗えず、スコアを崩していく。ただ1人、青木と同じ6位でスタートした吉川一雄だけが12番までに5バーディー、1ボギーと別世界のゴルフで通算4アンダーの単独首位に立っていた。
だが、その吉川も13番以降は持ちこたえられず、あっという間に通算1オーバーにまでスコアを落とした。
菊地は16番で吉川のスコアを知った。自身は通算イーブンパー。再び単独首位に立っていた。
「胃がキリキリと痛んだ」(スポーツニッポン紙より)と菊地。それまで経験したことがない緊張の中、16、17番と寄せワンでパーを拾っていく。
青木は後半、第一人者の意地を見せていた。グッと耐え続けた末に18番でバーディーを奪い、通算1オーバーでホールアウトした。
菊地は18番でもグリーンを捕えられなかった。それでもアプローチを70cmに寄せてパーパットを沈め、青木と吉川を1打抑えた。プロになって11年目、シードすら手にしたことがなかった男が初優勝をでっかいタイトルで飾ったのだ。
菊地は4年ほど前にパッティングがイップス気味になっていた。試行錯誤を繰り返し、2週間前に試したハンドダウンに構え、パターのトー側を浮かせて打つスタイルがしっくりきた。
最終日、パーオンできたのはたったの2ホールだがパット数はわずか23だった。苦しんできたパッティングが一世一代の大舞台で主役を演じさせてくれた。
(文責・宮井善一)
プロフィル
菊地勝司(きくち・しょうじ)1944(昭和24)年7月13日生まれ、静岡県出身。伊東高校時代は野球部で卒業後、草履店勤務を経てプロゴルファーを目指して杉本英世に弟子入りする。1970年、3回目の挑戦でプロテスト合格。1980年の日本オープンが唯一の優勝となった。
第45回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 菊地 勝司(フリー) | 296 | = 69 73 74 80 |
2T | 青木 功(日本電建) 吉川 一雄(田辺) |
297 | = 78 70 74 75 = 76 76 70 75 |
4 | 陳 志明(台湾) | 298 | = 76 73 73 76 |
5T | 鷹巣 南雄(鹿野山) 長谷川 勝治(船橋) 鈴木 規夫(城島高原) 郭 吉雄(台湾) |
299 | = 74 77 74 74 = 77 74 72 76 = 72 73 76 78 = 73 73 73 80 |
9T | Mark McNulty(ジンバブエ) 川田 時志春(川越) |
300 | = 75 77 71 77 = 70 74 72 84 |
参加者数 146名(アマ30名)