第4回日本オープンゴルフ選手権(1930年)
2022.02.28
第4回優勝宮本留吉(ゴルフドム11月号)
宮本が初のアンダーパーで史上最大差19打差の大会2連覇
10月25、26日、舞台は2年続けて茨木カンツリー倶楽部で、1日36ホール、2日間合計72ホールで行われた。ゴルフドム誌によると、コースは6300ヤード、パー72だった。アマ、プロ合わせて28人が参加。アマでは第1回覇者の赤星六郎と兄・四郎兄弟、川崎肇、大谷光明、高畑誠一らがいた。プロでは前年覇者の宮本留吉、同2位の安田幸吉、台湾の陳清水らが出場した。
東京日日新聞、大阪朝日新聞には成績が掲載されているが、麻雀の記事の方が大きく扱われているなど、まだゴルフの知名度は低かった。ゴルフドム誌が大会の詳報を伝えている。
第1日は、雨だった。「茨木カンツリー倶楽部が高々と掲げたる紺色の旗は哀れに淋しくたれるが、手入れの行き届いたコースには紅葉点々鮮やか」とある。
午前の18ホールでビッグスコアが出る。雨の中で各選手が苦戦。大谷は92をたたいた。川崎は75で回ってアマではトップスコアだったが、赤星六郎は83、四郎は84などスコアを崩した。プロ勢は悪コンディションの中でもうまくまとめ、安田が76で帰ってきた。そして宮本。4番でバーディーを奪い、8、12番でボギーとしたが、17、18番連続バーディーで1アンダー71をマークして首位に立った。
当時は第1日36ホールで首位から20ストローク以上離されると最終日に進めなくなる。宮本の71によって「80台の選手は焦慮と不安と決心で午後は一種の悲痛なセンセーションが漲った(みなぎった)」と記されている。
午後は赤星六郎が奮起する。3パットを3回しながらも3番からの3連続バーディーなどで茨木のコースレコード73で回った。これはアマとしてのレコードということだろう。安田は苦手のアウトで41、後半は2バーディーなどでこらえて79で回った。
宮本は好調でパープレーで回り、第1日は1アンダー143とし、午後74で回った陳に9打差をつけて首位に立った。3位安田は12打差。赤星六郎が13打差の4位に上がった。宮本の快スコアで最終日に進めたのは10人しかいなかった。大谷、高畑は途中棄権している。
最終日は一転して好天に恵まれた。グリーンは乾いて、前日より難しくなったという。宮本は3番でバーディーを奪い、7番ではソケット(シャンク)してバンカーに入れたが、そこから直接入れるなど午前のアウト2アンダーで回った。インでは2つ落として午前はパープレーだったが通算1アンダーをキープし、独走は変わらなかった。
安田はアウト39でターンしたが、インに入って10、12番のバーディーなどで74と踏ん張った。同組で回った陳、赤星六郎はともに81をたたいて後退。浮上したのはプロの越道政吉で、13、15番バーディーなど74で回った。だが、午前を終えて宮本が2位安田に14打差をつけ、勝負の行方は決まった感があった。
「最後のラウンド宮本は天馬の空を往くごとく何の障害もなく当たりを続けた」とある。アウトを36で回り、インでは11番でバーディーを奪い、14番でバンカーに入れてダブルボギーとしたが、16番バーディーとし、そのまま最終日はパープレー、通算1アンダー287で大会2連覇を達成した。2位安田との19打差は、今も残る最大差優勝記録だ。
宮本は茨木がホームコースだが、前年は6月開催で優勝スコアは298。「非常な進歩と言わねばならぬ。危なげなく、大道を闊歩していた」と、同誌は評している。「直接ヘーゲンより取り入れたパッティングが良く入り非常に効力があった」という。3パットは72ホールで4回、1パットが16回だった。
この年5月、日本ゴルフ協会の要請でウォルター・ヘーゲン(米国)がジョー・カークウッド(オーストラリア)とともに来日し、宮本はじめ当時の日本のトップアマ、プロと関東、関西で6回のエキシビションマッチを行っている(JGAHPより)。その際にアドバイスを受けたか、目で盗んだのだろうか。
残念ながら、同誌にも新聞にも、宮本の優勝後のコメントはなかった。ただ、この72ホール、通算1アンダー287というスコアは当時としては驚異的なスコアだったようで、1927年全英オープンでのボビー・ジョーンズの優勝スコア285を引き合いにして、同誌は大会詳報の冒頭でこう書いている。
「泰西の技術を取り入れてついに独創の艦型と性能を持って列強を凌駕したといわれる帝国海軍の精鋭が威風堂々大阪湾頭に大観艦式の祝砲をとどろかすその日、茨木カンツリー倶楽部において泰西の高貴にして古くかつ近代的なゴルフに、純国産ゴルファー宮本留吉がついに英米の代表選手に比してそん色なき好成績をもって優勝したことはなんたる愉快なる偶合(思いがけず出合う)であろう」。
快挙の裏に、戦争の影も感じさせる記事だった。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
宮本留吉(みやもと・とめきち)1902(明治35)年9月25日~1985(昭和60)年12月13日 兵庫県出身。小学生のころに神戸GC(兵庫県)でキャディーとして働きながらゴルフを覚えた。1925年に茨木CC(大阪府)でプロとなる。日本プロは第1回大会を含めて通算4勝、日本オープンは大会最多の6勝を挙げている。また、海外遠征の先駆者として道を拓き、32年の全英オープンで日本人選手初のメジャー出場を果たしている。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第4回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 宮本 留吉(茨木) | 287 | = 71 72 72 72 |
2 | 安田 幸吉(東京) | 306 | = 76 79 74 77 |
3 | 陳 清水(台湾) | 308 | = 78 74 81 75 |
4 | 越道 政吉(甲南) | 311 | = 81 80 74 76 |
5 T | 赤星 六郎(東京) 村木 章(宝塚) |
312 | = 83 73 81 75 = 81 77 78 76 |
7 | 小杉 広蔵(東京) | 319 | = 77 85 79 78 |
8 | 森岡 二郎(鳴尾) | 325 | = 82 78 83 82 |
9 | 関 一雄(根岸) | 326 | = 79 79 80 88 |
参加者数 28名(アマ13名)