第37回日本オープンゴルフ選手権(1972年)
2023.07.10
パットを決める韓長相(ゴルフマンスリー1972年12月号より)
混戦を制して韓長相が31年ぶりの韓国選手V
1972(昭和47)年、茨城県の大利根CC東C(7024ヤード、パー72)で開催された日本オープンではいくつかの変革があった。ひとつは観客の入場を有料化したこと。料金は大会初日と2日目が1000円、3日目は1500円、最終日は2000円、4日間通し券は4000円と報じられている。ふたつ目はテレビ中継が実施されたこと。大会3日目と最終日の模様がNHKで中継されている。また、大会最終日は従来、平日、主に金曜日に設定されていたがこの年から日曜日となった。現在のスタイルに大きく近づいたわけである。
優勝賞金は前年の150万円から250万円へと大幅増。賞金総額は1000万円に達した。
この年、開幕前に話題になっていたのがジャック・ニクラウスの参戦表明だった。世界最強の男のプレーが日本オープンで見られるはずだった。しかし、開幕の1週間余り前になってスケジュールの調整がつかないために出場を見送るとの連絡があり、幻に終わった。
9月28日の初日、4アンダー、68で首位に並んだのは杉原輝雄、尾崎将司、荒井進三と韓長相(韓国)の4人。尾崎はすでにシーズン7勝を挙げており、人気もうなぎのぼりだった。
2日目、首位にいた日本選手3人が大苦戦するのを尻目に韓は4バーディー、ボギーなしの68をマーク。通算8アンダーで河野光隆と謝永郁に3打差の単独首位に立つ。
韓は3日目、苦労しながらも71にまとめた。タイのスクリー・オンシャムがこの日ベストスコアの66を叩き出し、通算9アンダーで韓と首位に並ぶ。2打差3位は67と盛り返した尾崎。12番以降の7ホールで5バーディーを奪い、一気に浮上した。
最終日はこの3人が同組で優勝争いを繰り広げた。スタートホールでいきなりダブルボギーとつまずいた尾崎だったが8番までに4バーディーを決めて逆襲。アウトを終えた時点で9アンダーの韓とオンシャムに1打差に迫った。
インに入るとオンシャムが息切れし始める。韓と尾崎はまったく同じスコアを並べていった。
14番パー4、1打目を林に入れた韓は6mのパーパットを残すピンチだったが、これを沈めて苦境を脱した。対して、韓より近くに2オンしていた尾崎はバーディーパットを決められなかった。
終盤、ショットでは完全に尾崎が上回り、次々にチャンスを築いていく。だが、パットが入らない。韓は度々訪れるピンチを絶妙の寄せとパットでしのいでいく。1打差のまま迎えた18番パー5、最後の望みを託して2オンを狙った尾崎のショットはバンカーにつかまり、パーどまり。きっちりと3オン2パットでパーセーブした韓が両手で顔を覆った。
韓の師匠は戦前最後となった1941(昭和16)年の日本オープン覇者・延徳春である。延が韓国に持ち帰った優勝カップは戦火の影響で行方不明になっている。「新しいカップを持ち帰ったら一番喜ぶのは先生のはず」(報知新聞より)。31年の時を経て、日本オープン優勝盃は再び韓国へと渡った。
(文責・宮井善一)
プロフィル
韓長相(ハン・ジャンサン)1940(昭和15)年3月28日生まれ、韓国出身。日本での優勝は1972年日本オープンのみ。韓国では1960年代から70年代にかけて韓国オープンと韓国プロにそれぞれ7勝。ともに、今も残る大会最多勝記録である。
第37回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 韓 長相(韓国) | 278 | = 68 68 71 71 |
2 | 尾崎 将司(習志野) | 279 | = 68 74 67 70 |
3 | Sukree Onsham(THAI) | 280 | = 72 69 66 73 |
4 | 島田 幸作(宝塚) | 281 | = 69 73 68 71 |
5 T | 井岡 誠(鷹之台) 安田 春雄(マルマン) 青木 功(仙川) 河野 光隆(美野原) |
283 | = 71 73 69 70 = 69 71 72 71 = 72 69 71 71 = 71 68 72 72 |
9 T | 金井 清一(スリーボンド) 中村 通(東城陽) 杉本 英世(アジア下館) Graham Marsh(AUS) |
284 | = 70 71 75 68 = 70 74 71 69 = 74 71 69 70 = 69 71 70 74 |
参加者数 137名(アマ29名)