第24回日本オープンゴルフ選手権(1959年)
2022.12.26
1959年10月2日付日刊スポーツ
史上初のプレーオフ、日本留学中の陳清波が初優勝
日本オープンは1927年第1回から72ホールのストローク・プレー(当時メダル・プレー)で行われてきた。プレーオフは最終ラウンド翌日に18ホールで争うことになっていた。史上初めてプレーオフになったのがこの年だった。9月28日から3日間、神奈川・相模原GC(7255ヤード、パー74)で、プロ87人、アマ50人が参加して行われた。日刊スポーツ紙によると、コースの距離が延び、報知新聞紙によれば大会に備えて4月からラフを伸ばし放題にしたという。パー74の設定とはいえ、タフなセッティングだったようだ。
第1日、首位に立ったのは、コース記録の5アンダー69をマークした鑑田茂。まだ無名で2年前のプロテストに合格した23歳の新鋭だった。「ティーショットがスライスして怖い」と言いながらも前半は5バーディー、2ボギーの出入りの激しいゴルフで折り返し、インでは10番で木に当ててダブルボギー、11番ボギーで貯金を吐き出した。12、13番で10メートルほどのバーディーパットを入れて盛り返し、15番バーディーで取り返した後、最終18番パー5では第2打を4メートルにつけてイーグルを奪った。「(コース記録は)ひょっとすればひょっとするかなと思った」と話している。
優勝候補筆頭の中村寅吉はこの年、日本プロ、関東オープン、産経プロとタイトルを総なめにしての出場だったが、得意のパットが決まらず、3パットを重ねて78で44位と出遅れた。
第2日、鑑田が76と落として通算3アンダーで2位に後退した。代わって首位に立ったのが45歳のベテラン島村祐正だった。アゲンストで660ヤードの12番パー5でバーディーを奪うなどショットが良かったそうだ。中村寅はパープレーにまとめたが、前日の78が響いて首位に9打差の18位で苦しくなった。
最終日は36ホールで行われた。午前のラウンドで追いかけたのが中村寅。17番まで5アンダーで来た。首位島村がパットに苦しんで4オーバーと崩れており、最終18番でバーディーを奪えば逆転で首位に立つとともにコース記録更新の期待がかかった。ところが1メートルのバーディーパットを外し、それが尾を引いたのか午後はアウトで41をたたくなど自滅した形になった。
間隙をついて浮上してきたのが陳清波。島村に9打差でスタートして、午前を1アンダーで回り、4打差になった。午後もショットの正確さは崩れず、13、14番連続バーディーなど3アンダーで回り通算イーブンパー296でホールアウトした。後ろで回る島村が16番で1メートルのパットを外してボギーとして同じく通算イーブンパーでホールアウト。プレーオフに突入した。
翌日18ホールで争われたプレーオフでは、前半アウトでほぼ決着がついた。2番で島村が左のラフに入れ、第2打を木に当てて4オン、3パットしてダブルボギーをたたいた。3番で陳が3メートルのバーディーを決めて一気に3打差に。島村が立て直せず、アウト41で陳に5打差をつけられた。陳はこのリードを守り、1アンダー73で回り、5打差をつけてプレーオフを制した。
初優勝の陳はこの日、10月1日が28歳の誕生日だった。台湾・淡水で22歳の時にプロになり、1954、55年に2度来日して、川奈で修行した。報知新聞紙によると、この年の8月に東京GCに招かれて1年間の留学中だった。既にカナダカップ(現ワールドカップ)の台湾代表に3度選ばれている実力者で、日本オープンは3度目の挑戦でタイトルを手にした。
「リードしていても最後まで分かりませんでした。最初の日が一番苦しかった。無理にアンダーパーを狙いませんでした。その実力もありませんから」(報知新聞紙)と謙遜している。当時の写真では既にトレードマークのハンチング帽をかぶっている。プレーオフの18番では第2打を打ち終えて優勝を確信したのか、近くにいたカメラマンにキャディーと一緒の写真をお願いしたそうだ。
なお、翌日18ホールのプレーオフを行ったのはこの大会が最初で最後になり、今はサドンデス方式によるプレーオフを採用している。
余談になるが、プレーオフを伝える10月2日付日刊スポーツ紙に、同じ日同じ相模原GCで行われたプロゴルフ東西対抗(出場東西各8人)の記録が掲載されている。中村寅吉、小野光一、小針春芳らの東軍が、石井廸夫、石井哲雄らの西軍を破っている。プレーオフの2人に出場予定があったか、もし中村寅らがプレーオフになっていたらどうなったか、などは分からない。
(文責・赤坂厚)
プロフィル
陳清波(ちん・せいは)1931(昭和6)年10月1日生まれ。台湾北部の淡水出身。16歳から生家そばの淡水GCで働き、その後22歳で同GCのプロとなった。1959年に東京GC(埼玉県)所属となって活動の場を日本に移し、同年の日本オープンで初優勝を飾ったのを皮切りに多くのタイトルを獲得していった。自身のゴルフ理論をまとめた「近代ゴルフ」(1960年発行)は多くのゴルファーのバイブルとなり、「ダウンブロー」という言葉を日本に浸透させた。ワールドカップに台湾代表として出場すること11回。マスターズには1963年から6年連続で出場し、すべて予選を通過して最高成績は1963年の15位だった。1978年に帰化。日本名は清水泰行。2014年度に日本プロゴルフ殿堂入り。
第24回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 陳 清波(東京) | ※296 | = 76 76 73 71 |
2 | 島村 祐正(古賀) | 296 | = 71 72 78 75 |
3 | 鑑田 茂(相模) | 298 | = 69 76 78 75 |
4 | 中村 寅吉(関東PGA) | 300 | = 78 74 69 79 |
5 | 石井 哲雄(広野) | 301 | = 73 73 78 77 |
6 | 山田 彌助(関西PGA) | 302 | = 74 75 76 77 |
7 T | 松田 司郎(鳴尾) 小野 光一(程ヶ谷) |
303 | = 74 76 77 76 = 78 73 76 76 |
9 | 小針 春芳(那須) | 304 | = 72 79 75 78 |
10 T | 石井 茂(関東PGA) 石井 迪夫(芦屋) 佐藤 精一(我孫子) |
305 | = 74 78 73 80 = 76 76 78 75 = 75 75 76 79 |
※プレーオフ 陳清波=73 島村祐正=78
参加者数 137名(アマ48名)