第21回日本オープンゴルフ選手権(1956年)
2022.10.31
1956年9月21日付日刊スポーツ
連日のコースレコードで寅さんが8打差圧勝
1956(昭和31)年の日本オープンは国際色豊かな大会となった。フィリピンからセレスティーノ・ツゴット、ベン・アルダの2人、ハワイから3人のプロが参戦したのだ。日刊スポーツは大会前日の紙面で「外国選手が曲者」と見出しを立て「日本選手には見られない豪快なショットを見せていた」と海外勢が練習でロングドライブを連発する様子を報じている。その一方で慣れない高麗芝のグリーンへの適応力に疑問符をつけ「日本選手を押さえて優勝することはまず考えられない」と結んでいる。
9月18日、埼玉県の霞ヶ関カンツリー倶楽部西コース(6650ヤード、パー72)で大会は幕を開けた。初日首位に立ったのは1アンダー、71で回った藤井武人。小針春芳、佐藤敏雄、原政雄が1打差で追い、海外勢は73で回ったジミー・ウカウカ(ハワイ)の5位が最上位だった。
2日目は中村寅吉が3番パー5でイーグルを奪うなど3アンダー、69のコースレコードをマーク。通算2アンダー、142で首位に躍り出た。2位は3打差で藤井、小針、三田鶴三の3人。海外勢は戦前の予想記事通りに高麗グリーンに苦しみ、軒並みスコアを落とした。
最終日の前半は皆、低調だった。中村は76で、2位につけていた小針と藤井は75、三田は78と崩れた。中村の首位は変わらず、2打差で小針と藤井という展開で、勝負の行方は予断を許さない状況だった。
だが、午後の最終ラウンドに入ると中村が午前とは別人のゴルフを見せつける。午前中、ティーショットは方向性を重視していたが、勝負の午後になると思い切り振りはじめたのだ。
俄然、調子が上がってきた中村は3、4番で連続バーディーを奪ってアウトは34。小針も35と食い下がるが差は3打に広がった。
決定的な差がついたのが14番パー4だった。小針はティーショットを右に曲げて木の根元にくっついてしまい、ダブルボギー。対して中村は長いバーディーパットを決めて突き放した。
中村は16、17番もバーディー。前日に自らつくったコースレコードを塗り替える67を叩き出した。通算3アンダーの285は小針に8打差をつける圧勝で4年ぶりの大会2勝目。海外勢はツゴットの15位が最高だった。
優勝賞金は前年の2倍となる50万円。開幕前日に41歳の誕生日を迎えた寅さんがいよいよ円熟期を迎えた。同じ霞ヶ関カンツリー倶楽部の東コースで行われたカナダカップで世界一に輝くのは、この翌年のことである。
プロフィル
中村寅吉(なかむら・とらきち)1915(大正4)年9月17日生まれ、神奈川県出身。1934年にプロとなるが、大輪の花を咲かせたのは戦後。50年の第1回関東オープンで初優勝を飾ってから第一人者へと駆け上がった。57年にはカナダカップで団体、個人の2冠を達成している。主な戦績は日本プロ4勝、日本オープン3勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。また、日本女子プロゴルフ協会初代会長として黎明時の女子プロ界を支えた。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第21回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 中村 寅吉(関東PGA) | 285 | = 73 69 76 67 |
2 | 小針 春芳(関東PGA) | 293 | = 72 73 75 73 |
3 T | 小野 光一(程ヶ谷) 石井 迪夫(芦屋) |
298 | = 74 74 74 76 = 78 73 72 75 |
5 | 関 新三(霞ヶ関) | 299 | = 75 74 74 76 |
6 T | 沢田 友春(山口) 島村 祐正(唐津) 山田 彌助(茨木) |
300 | = 76 73 76 75 = 74 76 76 74 = 75 75 76 74 |
9 T | 栗原 甲子男(小金井) 三田 鶴三(霞ヶ関) 藤井 武人(福岡) 林 由郎(我孫子) 寺本 金一(茨木) |
301 | = 79 70 77 75 = 73 72 78 78 = 71 74 75 81 = 74 76 79 72 = 75 78 75 73 |
参加者数 111名(アマ30名)