第18回日本オープンゴルフ選手権(1953年)
2022.09.21
1953年10月8日付読売新聞
小野光一(孫士均)が2年ぶりに制す
大会は10月5~7日、兵庫の宝塚コース(宝塚GC、パー70)で行われた。91人(プロ68人、アマチュア23人)が参加した。第1日に首位に立ったのは、霞ケ関所属の関新三で、1オーバー71。快晴のコンディションにもかかわらず、アンダーパーが出ていないので、難しいセッティングだったとうかがえる。1打差で孫士均、石井廸夫がつけた。読売新聞では、地元宝塚の古賀春之輔が79で回って21位でスタートした記述が見える。
第2日、孫が73で回り通算5オーバーで予選ラウンド首位になった。1打差で石井廸が続いた。前年優勝の中村寅吉は通算11オーバー151で8位につけている。当時の資料が少なく、プレー内容などは不明だ。アマチュアの予選通過はいなかった。
最終日は36ホールで行われた。ここで孫に6打差でスタートした中村が追撃する。午前の18ホールを初めてアンダーとなる69をマーク。73で回った孫に2打差に迫った。読売新聞によると、中村は最終組で午後の18ホールをスタート。「孫のスコアを速報で聞きながら、6番でバーディー。7番でもバーディーを狙って、右に深く打ち込んだティーショットが2尺(約60センチ)ほどOBとなり、結局これが致命傷となった」(一部抜粋)と伝えている。
中村は午後72で回ったが、孫は落ち着いたプレーで午後も73と安定したスコアをマーク。通算11オーバー291で、中村の追撃を1打かわして優勝を遂げた。同紙は「狭いコースだけに正確なショットが要求され、ただ1度もOBを出さなかった孫の優勝は当然といえよう」と総括している。
※名前は優勝当時の孫士均で記載
(文責・赤坂厚)
プロフィル
小野光一(おの・こういち、孫士均)1919年(大正8年)5月19日生まれ、旧満州出身。大連で生まれ、当地の星ケ浦GCでキャディーとして働いていたところ日本の財界人にゴルフの腕前を見込まれて37年に来日した。当時の名前は孫士釣(そん・しきん)。その後、帰化して小野光一と名乗った。程ヶ谷CC(神奈川県)を拠点とし、57年に霞ヶ関CC(埼玉県)で開催されたカナダカップに中村寅吉と組んで優勝する快挙を達成した。主な優勝は、日本オープン3勝(1951、53、55年)、日本プロ1勝(55年)、関東プロ5勝(49、58、59、62、63年)など。
第18回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 孫士釣(=小野光一、程ヶ谷) | 291 | = 72 73 73 73 |
2 | 中村 寅吉(関東PGA) | 292 | = 80 71 69 72 |
3 | 石井 迪夫(芦屋) | 294 | = 72 74 78 70 |
4 T | 栗原 甲子男(小金井) 内田 義男(関東PGA) |
297 | = 76 72 76 73 = 74 73 78 72 |
6 | 岩崎 正人(軽井沢) | 300 | = 74 76 75 75 |
7 T | 石井 朝夫(関東PGA) 林 由郎(我孫子) |
301 | = 76 73 76 76 = 77 77 72 76 |
9 | 鈴木 源次郎(東京) | 304 | = 75 75 76 78 |
10 T | 小針 春芳(那須) 石井 茂(関東PGA) |
305 | = 78 76 75 76 = 78 74 77 76 |
参加者数 91名(アマ22名)