第13回日本オープンゴルフ選手権(1940年)
2022.07.11
最終ラウンド15番ホールで2打目を放つ宮本留吉(ゴルフドム1940年7月号=日本ゴルフ協会所蔵=より)
宮本留吉が大会最多6勝目をマーク
第1回日本プロを制するなど黎明期から第一人者であり続けた宮本留吉と、12歳年下の戸田藤一郎。年は離れていたが戸田が台頭してからこの2人は何度も好勝負を繰り広げてきた。そんな宮本と戸田が日本と名のつくトーナメントで最後に覇権を争った舞台。それが1940(昭和15)年の日本オープンだった。会場は東京ゴルフ倶楽部朝霞コース(パー74)である。この後、陸軍に接収されて姿を消した同コースにとっても最後のトーナメントとなった。
5月28日の初日、戸田が4アンダー、70を出して首位に立つ。宮本は74で8位だった。
2日目、宮本が驚異的なプレーを披露する。アウトを2バーディー、2ボギーの37で終えると、インでは11、12、13、15番でバーディーを重ねた。18番パー5は2番ウッドで2オン。10mほどのパットをねじ込んでイーグルだ。インは6アンダーの31。トータル68は朝霞コースで初めての60台となった。宮本は後に自著でこの日のインでのプレーを「私の生涯で最高といっていいプレー」と記している。
戸田は72。両巨頭が6アンダー、142で首位を分けた。
36ホールの最終日、宮本と戸田は別の組でのプレーとなった。第3ラウンドはともに70。一歩も譲らない白熱した戦いが続いた。
最終ラウンドはまず2番パー4で動きがあった。両者ともに2打目をバンカーに入れたが宮本がパーセーブしたのに対して戸田はボギー。宮本が1打リードした。
3番パー3で戸田はまたもバンカーにつかまってボギー。宮本はバーディーを奪って明暗分かれた。宮本は続く4番パー5で2オンに成功してバーディー。パーに終わった戸田との差は4打に広がった。
序盤についた差を生かして宮本が優位にプレーを続ける。戸田は18番のバーディーで2打差に迫ったのが最後の意地か。通算11アンダー、285の素晴らしいスコアで宮本が4年ぶりの大会6勝目を飾った。これは、今なお残る日本オープン最多勝記録である。宮本はここまで12回の出場で6勝。勝率5割という強さだった。
宮本はゴルフ誌のゴルフドムに「これまではプロとして日常生活の大部分の時間をクラブ製作に費やしましたが、近頃の材料不足でこの方面の仕事はほとんど出来なくなりました。しかしその為に練習時間が多くなり、最近の私は自分でも調子がよくなったと思っている位です。それが今度図らずも私が優勝するようになった第一の原因だと思っています」(一部現代語訳)との書き出しの手記を寄せている。戦時色が濃くなっていた時代であることを感じさせる内容である。
(文責・宮井善一)
プロフィル
宮本留吉(みやもと・とめきち)1902(明治35)年9月25日~1985(昭和60)年12月13日 兵庫県出身。小学生のころに神戸GC(兵庫県)でキャディーとして働きながらゴルフを覚えた。1925年に茨木CC(大阪府)でプロとなる。日本プロは第1回大会を含めて通算4勝、日本オープンは大会最多の6勝を挙げている。また、海外遠征の先駆者として道を拓き、32年の全英オープンで日本人選手初のメジャー出場を果たしている。2012年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第13回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 宮本 留吉(茨木) | 285 | = 74 68 70 73 |
2 | 戸田 藤一郎(広野) | 287 | = 70 72 70 75 |
3 T | 島村 祐正(福岡) 林 萬福(東京) |
289 | = 71 74 71 73 = 76 70 72 71 |
5 | 浅見 緑蔵(程ヶ谷) | 292 | = 74 73 73 72 |
6 T | 陳 清水(武蔵野) 上堅 岩一(大阪) |
293 | = 76 72 71 74 = 72 76 72 73 |
8 | 小谷 金孝(茨木) | 296 | = 71 74 78 73 |
10 T | 小池 国喜代(霞ヶ関) 中村 寅吉(程ヶ谷) |
297 | = 72 73 74 78 = 77 70 75 75 |
参加者数 93名(アマ25名)