第29回日本プロゴルフマッチプレー選手権(2003年)
2021.12.06
最後の日本プロマッチプレー優勝者となったハミルトン(提供JGTO)
“最後のマッチプレー王者”はトッド・ハミルトン
1975(昭和50)年に創設された日本プロゴルフマッチプレー選手権は2003(平成15)年には29回大会を迎えていた。会場は例年通り北海道のニドムクラシックCニスパC(6957ヤード、パー72)。9月4日の大会初日は32選手が参加して1回戦が行われた。この日、注目を集めたのは初出場の25歳、星野英正だった。日本アマ3勝など数々のアマチュアタイトルを手にプロ入りして4年目。当初はプロの壁にぶち当たり、期待通りの活躍ができなかったが、この年の5月、中日クラウンズでついに初優勝。ようやく軌道に乗り始めた時期だった。
その星野は歴代優勝者の友利勝良を相手に6-5の圧勝を飾る。クラブハウスに引きあげて取材を受けている最中に翌日の2回戦の相手が片山晋呉に決まったとの知らせが入った。相手はツアーを代表する実力者だ。「よし、やってやろうじゃないか」と自らに気合を入れた。
星野の言葉を伝え聞いた片山は「僕がどれだけ燃えて本気になれるか」と先輩の意地をにじませる。対戦前日からマッチプレーならではの火花が散っていた。
このマッチの軍配は後輩の星野にあがった。取って取られての大激戦は18番まで戦って星野の1アップ。準々決勝に駒を進めた。
2回戦で存在感を示したもうひとりの男がマッチプレーにめっぽう強い谷口徹だ。前年は賞金王に輝くも頭部血管腫を患いシーズン終盤はツアーを離脱。この年は無事復帰したが、状態は上がらず、海外を含めて4試合連続予選落ちというどん底だった。それが、マッチプレーになったとたんに蘇った。1回戦で深堀圭一郎を3-2で下し、この日は金鍾徳を相手にオールスクエアで迎えた14番パー5をイーグルで奪うと、16、17番はバーディーで連取。終盤の猛攻で一気に勝負を決めた。今大会は優勝こそないが毎回上位に顔を出し、この日までの通算成績は14勝5敗。7割3分7厘という高い勝率を誇っていた。
だが、その谷口もこの年すでに3勝を挙げて賞金ランキングトップに君臨していたトッド・ハミルトンにはかなわなかった。準々決勝でハミルトンから1ホールも奪うことができず、5-3で完敗。「短いパットを外し過ぎた」と嘆いた。
星野は準々決勝で宮瀬博文と21ホールに及ぶ激闘の末に敗退。その宮瀬は準決勝でハミルトンと接戦を演じたが惜しくも敗れた。準決勝のもう1マッチはデービッド・スメイルが平塚哲二を4-3で撃破。決勝は米国のハミルトンとニュージーランドのスメイルという顔合わせになった。
日本ツアー12年目を迎えたハミルトンにとって1994(平成6)年以来2度目の決勝である。前回は白浜育男を8-7という決勝史上最大差で下して優勝している。
スメイルは当時日本ツアー7年目。前年は日本オープンで初優勝を飾り、賞金ランキング5位に入っていた。
この2人、前年大会の2回戦でも顔を合わせており、その時はスメイルが1アップで勝利していた。36ホールマッチの再戦はハミルトンが押し気味に序盤を進めた。中盤はスメイルが押し返す。通算24ホール目を終えた時点でスメイルの1アップという展開だった。
25ホール目からハミルトンに大きな波が来た。このホールから4連続バーディーで4連続アップ。一気に3アップと突き抜けた。
そして34ホール目の16番パー4でチップインバーディー。スメイルがバーディーパットを外して勝負は決した。この年4勝目。出場11試合目で獲得賞金は1億円を突破した。
母国のツアーで戦うことを夢見ながら、出場権をかけた米ツアー予選会で何度も涙を飲んでいた。日本でも1998(平成10)年に7勝目を挙げてからしばらく勝ち星から遠ざかっていた。四十路も近づき、自信を失いかけていた。それが、この年の5月、フジサンケイクラシックで5年ぶりの8勝目を飾って男泣きしてから流れが変わった。6月にはダイヤモンドカップとミズノオープンで優勝。「ひとつ勝つごとに、雪だるまが転がるように自信がふくらんでいった」と復活劇を解説した。
日本プロゴルフマッチプレー選手権は、この年で大会の歴史に終止符を打つことになった。最後のチャンピオンとなったハミルトンは同年、8度目の挑戦で米ツアーの出場権をつかみ取った。大会制覇で得た自信が、夢をかなえる原動力となったわけだ。
翌2004(平成16)年、米ツアールーキーのハミルトンは5月に彼の地で初優勝を果たす。その2カ月後、今度は英国で全英オープンチャンピオンに上り詰めた。これは“日本ツアーメンバー”としてつかんだメジャータイトルでもあった。
(文責・宮井善一)
プロフィル
トッド・ハミルトン 1965年10月18日生まれ米国イリノイ州出身。オクラホマ州立大卒。1992年アジアンツアー総合優勝で日本ツアーシード権を獲得し、同年のマルマンオープンで初優勝。2003年には年間4勝を挙げて、賞金ランキング3位となる。日本ツアー通算11勝。04年から米ツアーに参戦し、同年の全英オープンではプレーオフでアーニー・エルスを破って優勝した。