第27回日本プロゴルフ選手権(1959年)
2016.06.27
決勝を戦い終えて握手する中村(左)と小野(日本プロゴルフ協会30年史より)
“夢の対決”を制し、寅さんが3連覇達成
日本プロは1959(昭和34)年、2年前に結成された日本プロゴルフ協会が主催を日本ゴルフ協会から引き継いだ。“プロによるプロ日本一を決める大会”がようやく実現したのだ。この年の会場は大阪府の茨木CC(6764ヤード、パー72)。第1回、第2回大会(1926、27年)が行われた歴史的なコースに32年ぶりに日本プロが戻ってきた。注目は中村寅吉の3連覇成るか、だった。1957年に小野光一とのペアでカナダカップを制した中村はその存在感を一層増し、翌1958年には関東オープンで3連覇、日本プロで連覇を達成したほか、日本オープンや産経招待を制していた。押しも押されもせぬ第一人者がもちろん優勝候補筆頭。参加77人からマッチプレーに進む16人を決める予選でも中村は実力を如何なく発揮し、2アンダー、142で吉川清と並んで1位通過を果たした。
予選が行われた7月7日は気温30度を超えていた。うだるような暑さの中、へばってスコアを崩す選手が少なくなかったが、中村は「こんなに暑い日にムキになったら損だよ」(報知ゴルフ誌より)と省エネプレーに徹して好スコアにつなげた。
大会2日目は1、2回戦が行われ、中村は細石憲二を4&3、石井哲雄を5&4で一蹴。石井朝夫、小野光一、橘田規とともに準決勝に駒を進めた。
36ホールで争う準決勝の組み合わせは中村VS石井、小野VS橘田だった。小野は若い橘田を6&5であっさり下したが、もう一方の中村VS石井のマッチは大激戦となった。当時の日刊スポーツ紙からその様子を再現する。
『午後の12番、中村寅と石井朝はオール・スクエアの接戦をつづけていた。第2打を打ち終わった中村は「小野の組はどうなっている?」と役員に聞く。「小野の5アップだよ」「そうか、もうきまりだな。それじゃ俺も勝たなきゃ……」とのどをうるおすコーラのびんを片手にかけ出していった。』
ともにカナダカップを勝ち取った小野と決勝を戦いたい。そんな中村の心の内が伝わってくるような記事である。
中村は15番でバーディーを奪って一歩抜け出すが、土壇場18番で石井がバーディーを奪い返して勝負はエキストラホールへともつれこんだ。その2ホール目、中村がバーディーを奪い、38ホールに及んだ死闘を制した。
中村VS小野の決勝は午前9時に火ぶたが切られた。経験豊富な2人だが、日本プロのマッチプレーで対決するのは初めてのことだった。互いに知り尽くした2人の対決に小野は「寅さんのロングパットさえ入らなければ勝つ自信はある」(スポーツニッポン紙より)と4年ぶりの大会2勝目に意欲を見せていた。しかし、そんな小野の思惑は序盤で崩れ去る。中村が1番からピン絡みのショットを連発して4連続バーディーを奪い、小野はその間、ひとつもバーディーを奪えなかったのだ。いきなり中村が4アップと強烈な先制攻撃を浴びせた。
小野は5、10番を奪って反撃するが、中村は11番からの8ホールで5ホールを手中にして前半を終えた時点で7アップ。世界一コンビの夢の対決は道半ばで大勢が決した。
最終的には5&4。後半、小野が粘りを見せたが大差を覆すまでには至らなかった。スポーツニッポン紙は「立ち上がりで4アップできたからあとが楽になったけど、なんといってもソンちゃん(小野選手のこと)はくせ者だから油断できなかったよ。その点準決勝の時よりきょうの方がアタシにゃ苦しかったね。早くドーミーにもってこようとばかし思っていたよ」と好敵手・小野を称える中村の言葉を掲載している。
戦前の戸田藤一郎に続く大会史上2人目の3連覇達成。寅さんがまたひとつ歴史に名を刻んだ。
プロフィル
中村寅吉(なかむら・とらきち)1915~2008神奈川県出身。1934年にプロとなるが、大輪の花を咲かせたのは戦後。50年の第1回関東オープンで初優勝を飾ってから第一人者へと駆け上がった。57年にはカナダカップで団体、個人の2冠を達成している。主な戦績は日本プロ4勝、日本オープン3勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。また、日本女子プロゴルフ協会初代会長として黎明期の女子プロ界を支えた。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。