第17回日本プロゴルフ選手権(1949年)
2014.06.02
林2オーバーの好調 全日本プロ招待ゴルフ競技
戦後ゴルフ界に光、林由郎V
45年(昭20)は中止としたプロ野球は、46年にペナントレースを再開した。戦時中、各地で本場所ではない興行を行っていた大相撲は、45年11月に被災して破損した国技館で10日間の戦後初の本場所を開催。プロゴルフ界は・・・。47年に関東で月例競技が復活。48年に公式戦では関東プロゴルフ選手権が戦後初の競技を再開、林由郎が優勝している。49年に関西プロ(優勝寺本金一)、関西オープン(優勝戸田藤一郎)も再開。本格的に「プロゴルフの復興」が進んだ。43年から6年間中断していた公式戦「日本プロ」の再開は49年。当時の大会名称は、日刊スポーツ新聞によると「全日本プロ招待ゴルフ競技会」とあり、朝日新聞には「日本プロゴルフ選手権」とある。この大会は関東プロゴルフ協会の主催となっているが、関西、関東のプロが集結した「日本プロ」の復活だった。
舞台は千葉・我孫子ゴルフ倶楽部。この大会を制した林由郎のホームコースでもある。林の長男でプロゴルファーの由一によると「徴兵から帰った父は、芋畑になっていたコースをモッコかついで作り直したと話していました」という。コースの「復興」も大会開催への課題だったことがうかがわれる。当時の報道によるとコースは、グリーンはしっかりしていたが、それまでの悪天候で全体の状態は悪く、試合が接戦になったとしている。
大会には58人が出場し、9月14、15日の2日間競技で、1日36ホール、計72ホールのストロークプレー(当時はメダルプレー)で争われた。初日(第1日)、首位に立ったのは孫士釣(後に小野光一に改名)。この日は南からの強風が吹き付ける中でのプレーだったという。孫は3オーバー147で回り、1打差で林が続いた。中村寅吉が2打差で3位につけた。
最終日(第2日)は微風のコンディション。日刊スポーツ新聞に最終日の模様が詳しく掲載されている。初日首位の孫は、2バーディーを奪ったものの、パットにムラがあり、第11ホール(11番)で3パットのボギーをたたくなどスコアを落とし、2オーバー74。林は第8ホールのロングホール(557ヤード)で第3打をグリーンオーバーしながらパーで切り抜け、第9ホールでバーディーを奪って1アンダー71をマークし、54ホールを終えた時点で孫を逆転して首位に立った。3位は中村。
2ラウンド目に入ると、林は第10ホールでティーショットを谷に落としたが、隣の第11ホールにボールを出し、林越えの「妙技を見せて」パーで切り抜けるなど、74にまとめてこの日145をマーク。通算5オーバー293でホールアウトした。孫は後半のインを2アンダーで回ったが、2打及ばず2位。第11ホールから3連続バーディーを奪った陳清水がこの日145で4打差3位に食い込み、中村は5位だった。
優勝時の林のコメントは伝わっていない。長男由一も、この優勝について父からは聞いていないという。優勝賞金は3万円だった。
プロフィル
林由郎(はやし・よしろう)1922~2012千葉県出身。子供のころに自宅近くの我孫子GC(千葉県)でキャディーを始め、その後プロとなる。戦後初のプロ競技となった1948年の関東プロで初優勝を飾り、49年日本プロ、50年日本オープンと戦後の第1回大会を次々に制していった。日本プロ4勝、日本オープン2勝などの実績に加え、青木功、尾崎将司、尾崎直道、飯合肇(日本男子ツアー)、海老原清治(欧州シニアツアー)、福嶋晃子(日本女子ツアー)と6人もの賞金王・女王を育てた名伯楽としても名高い。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。
第17回日本プロゴルフ選手権成績
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 林由郎 | 293 | = 148 145 |
2 | 小野光一 | 295 | = 147 148 |
3 | 陳清水 | 297 | = 152 145 |
4 | 石井迪夫 | 304 | = 150 154 |
5 | 中村寅吉 | 305 | = 149 156 |
6 T | 藤井武人 三田鶴三 |
308 | = 162 146 = 154 154 |
8 T | 山本増二郎 岩崎正人 石井治作 |
309 | = 155 154 = 154 155 = 160 149 |