第14回日本プロゴルフ選手権(1939年)
2014.07.07
日本プロゴルフ協会30年史より
戸田藤一郎、年間グランドスラムを達成
球聖と称されるボビー・ジョーンズは1930(昭和5)年に全英オープン、全英アマ、全米オープン、全米アマの4大会を制して年間グランドスラムを達成した。その9年後、日本でも同様の偉業を成し遂げた選手が現れた。戸田藤一郎である。戸田は33年、18歳で出場した関西オープンで初優勝を飾ると、翌34年は関西プロ、さらに35年には日本プロ制覇と着実にステップアップしていく。38年には関西オープン、関西プロ、日本プロを制して年間グランドスラムに王手をかける。残念ながら日本オープンは2位に終わったが、その実力は誰もが一目置くところとなった。
そして39年、戸田はまず6月に日本オープンで5打差の優勝を飾る。9月には関西プロの決勝で宮本留吉と対戦し、5&4で撃破。さらには関西オープンでは2位に7打差をつけて圧勝した。36ホールのストロークプレーで争われたこの大会での戸田のスコアは69、68の137。従来の大会記録を5打も更新した。
前年に続いて年間グランドスラムまであと一歩に迫った戸田は10月18日から静岡県の川奈ホテル富士コースで行われた日本プロで偉業に挑んだ。
参加選手は53人。初日は36ホールのストロークプレーを行い、上位16人がマッチプレーに進出するという競技方法である。戸田は77、76の153にまとめて2位通過。メダリスト(1位)は149の宮本留吉だった。
2日目、戸田はまず1回戦で藤井武人を、2回戦では行田虎夫を下して準決勝に進む。3日目の準決勝は沢田友春を9&8の大差で圧倒した。決勝の相手は宮本留吉。宮本は準決勝で延徳春を13&12のワンサイドゲームで下していた。
10月21日午前9時、24歳の戸田と37歳の宮本が36ホールの決勝に臨んだ。宮本がまず6、7番を奪うが、戸田はすぐに8、9番を取り返してマッチイーブン。インでは戸田が13番でリードしたあと、宮本は17、18番でダブルボギーを叩き、戸田の3アップで前半を終了した。
後半は一進一退の互角のゲーム。戸田3アップで迎えた16番でついに決着がついた。
16番は185ヤードのパー3である。ティーグラウンドの後方は海で、グリーンは砲台。かつて行われていた男子ツアーのフジサンケイクラシックや、現在行われている女子ツアーのフジサンケイレディスでは17番としておなじみのホールである。
当時の雑誌『ゴルフドム』では次のように16番ホールの様子を伝えている(一部現代語訳、カッコ内は注釈)。
「二人はティーに立った。戸田は木の五番で打った。乗らない。球はグリーンの土手に当たって下へ落ちた。宮本も同じくクリークで打った。これは見事にピンから二間(約3.6メートル)程斜め右上へオンした。戸田は例の通り勇ましい微笑をその顔に浮かべながら9番アイアンで打った第二打は、ピン斜め左下一間(約1.8メートル)ばかりへ寄った。宮本の第一パットはホール左を切って三尺(約90センチ)程オーバーした。戸田は楽に沈めて3-3のハーフ。拍手が大きくはじけるように響く。」
ドーミーホールの16番を分け、3&2で宮本を下した戸田は、ついに4冠、年間グランドスラムを達成した。『ゴルフドム』には「おかげさまで勝ったという以外、別に何も感想はありません。運がよかったのと、皆様のおかげです」(一部現代語訳)という戸田のコメントが掲載されている。
これより前、関東では31年に浅見緑蔵が日本プロ、日本オープン、関東プロの3大会を完全制覇(当時関東オープンは創設されていなかった)したことがあったが、4大会完全制覇は戸田が初めて。日本プロゴルフ史に残る快挙となった。
実は戸田が年間グランドスラムを達成した日本プロは本来10月17日に開幕する予定だったのだが、悪天候のため翌日に順延になっている。もし、予定通り開催されていれば違う結果になっていたのだろうか。答えは出ないが、そう思いを巡らせることもまた歴史を掘り下げる楽しみのひとつである。
プロフィル
戸田藤一郎(とだ・とういちろう)1914~1984兵庫県出身。1933年、18歳で関西オープンに勝ち、19歳で関西プロ、20歳で日本プロと若くして数々のタイトルを獲得。39年には日本プロ、日本オープン、関西プロ、関西オープンに勝ち、当時の年間グランドスラムを達成した。年齢を重ねてからも存在感を示し、63年には48歳の大会最年長で日本オープンに優勝し、71年には56歳で関西プロを制している。12年に日本プロゴルフ殿堂入り。