第47回日本オープンゴルフ選手権(1982年)
2023.12.11
ウイニングボールを投げる矢部昭(アサヒゴルフより)
体重50キロの超軽量・矢部昭が5打差の快勝
1982(昭和57)年の日本オープンが行われた10月下旬、男子ツアーは28歳の中嶋(当時の表記は中島)常幸が勝利を積み重ねて初めての賞金王に向けて突き進んでいた。ただ、10月に入ってからの主役は台湾出身の謝敏男だった。日本オープン前週まで3試合連続で初日から首位を守る完全優勝という驚異的なゴルフでツアーを席巻していた。
日本オープンの会場、埼玉県の武蔵カントリークラブ豊岡コース(6106m、パー71)は距離はそれほどないものの、絞ったフェアウエーと深いラフ、小さくて速いグリーンが難易度を高めていた。小さなグリーンにボールを止めるにはフェアウエーキープが絶対条件、そしてピンを狙い過ぎてグリーンを外すとダブルボギーもある。そんなセッティングだった。
注目の謝はさすがに疲れが出たのか、76と崩れ80位と大きく出遅れた。首位に立ったのは4アンダー、67で回った石井秀夫。1打差で尾崎将司、中嶋ら4人が続いた。
2日目、上位陣がスコアを崩す中、ティーショットにフェアウエーウッドやアイアンを多用した倉本昌弘が70にまとめ、通算2アンダーで単独首位に出た。1打差2位には尾崎や前年覇者の羽川豊ら6人が並び、謝は予選で姿を消した。
3日目に躍動したのは36歳の矢部昭だった。6バーディー、2ボギーでこの日ベストスコアタイの67をマーク。通算5アンダーで2位から首位に躍進した。1打差2位は同じく67で回った白浜育男(当時の表記は郁夫)。2打差3位に台湾の陳志明がつけ、尾崎と中嶋が3打差4位で追うという展開になった。
最終日、矢部は428mと距離の長い1番パー4でバンカーからの3打目を50cmに寄せてパーをセーブした。ここまで関東プロなど4勝の実績がある矢部だが日本と名のつく試合には勝っていない。初めてのタイトルに向け勢いがつくスタートとなった。
追う選手が苦戦する中、矢部は5番で初バーディーを奪う。9番はボギーとしたが10、11番連続バーディーで後続を一気に突き放した。
12番以降はパーにまとめ、この日は69。通算7アンダーは2位に5打差をつける快勝で、18番グリーンに向かいながら矢部は2度、3度とガッツポーズを繰り出していた。
多くの選手がフェアウエーキープのため“刻み”に徹する中、矢部は積極的にドライバーを握った。身長172cmながら体重が50キロしかないという超細身の体をしならせて振り切った。コントロールしようとするよりもしっかりと振り抜いたほうが曲がらないという信念があった。
一方でグリーンを狙うショットは徹底して安全策をとった。ショートアイアンでもグリーン中央に照準を定め、攻め過ぎてオーバーさせることを避けた。
勇気と冷静なマネジメントが融合したゴルフでつかんだ初めての日本オープンタイトル。「ギャラリーで埋まった(18番の)グリーンに向かって文字通りの男の花道を存分に味わいました」(週刊アサヒゴルフより)と感激に浸った。
(文責・宮井善一)
プロフィル
矢部昭(やべ・あきら)1946(昭和21)年6月1日生まれ、栃木県出身。中学卒業後、就職先でゴルフを始めてプロを目指すようになり、19歳でプロテスト合格。初優勝は1978年のくずは国際で31歳の時だった。賞金ランキング加算競技で通算5勝。1980年には自己最高の賞金ランキング6位に入っている。
第47回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 矢部 昭(アリガゴルフ) | 277 | = 71 70 67 69 |
2T | 尾崎 直道(日東興業) 羽川 豊(霞ヶ関) 白浜 郁夫(バーディック) |
282 | = 71 75 70 66 = 70 71 71 70 = 72 70 67 73 |
5 | 中島 常幸(美津濃) | 283 | = 68 74 69 72 |
6T | 水野 和徳(小山) 尾崎 将司(日東興業) |
284 | = 74 70 69 71 = 68 73 70 73 |
8T | 栗原 孝(武蔵) 藤木 三郎(後楽園スタヂアム) 陳 志明(台湾) |
285 | = 71 71 73 70 = 72 69 72 72 = 70 71 69 75 |
参加者数 125名(アマ21名)