第31回日本オープンゴルフ選手権(1966年)
2023.04.10
優勝カップを抱えた佐藤精一が林由郎(左端)ら我孫子一門の仲間に祝福される(佐藤精一氏所蔵)
最終ホールの劇的バーディーで佐藤精一が初優勝
自分が所属しているコースで日本オープンに勝つ――。ゴルフ場の数が少なかった戦前はそれほど珍しい出来事ではなかったが、戦後復興最初の大会となった1950(昭和25)年に我孫子ゴルフ倶楽部で林由郎が勝って以来、所属プロの日本オープン優勝は途切れていた。1966(昭和41)年、16年ぶりに大会会場の所属プロが日本オープンを制した。会場は千葉県の袖ヶ浦カンツリークラブ袖ヶ浦コース(7030ヤード、パー72)である。
大会初日は石井弘(後の裕士)が6アンダー、66をマークして首位に立つ。1打差の2位には51歳の戸田藤一郎、2打差の3位には43歳の石井朝夫とベテラン勢が奮闘していた。
戸田は2日目を72にまとめ、通算5アンダーで大島富五郎、佐藤精一と首位に並んだ。大島はプロ3年目の若手、佐藤は34歳の中堅でともに未勝利。佐藤は袖ヶ浦CCが開場して間もない1961(昭和36)年に我孫子GCから移籍しており、ホームコースで、しかも日本オープンの大舞台で初優勝のチャンスを迎えたわけである。
プロ11年目を迎えていた佐藤はこの年、関東オープン5位、日本プロ4位とまずまずの成績を収めていた。ホームコースでの大一番に大会前から我孫子一門の大先輩である林由郎から「今度はお前のチャンスだ」と激励されていた。
36ホールの最終日は風が強まり、冷え込んだ。ゴルフ誌の『ゴルフ』に佐藤が寄せた手記によると、そんな気象条件を肌で感じ「スコアは全体にくずれるはずだ。この間げきをぬっていこう」と考えたという。
佐藤の予想通り、全体的にスコアは伸び悩んだ。第3ラウンドで大島は77を叩いて圏外に去り、戸田も74と苦戦。73にまとめた佐藤が単独首位に立った。
佐藤が最も警戒していたのは第3ラウンドを終えて3打差に迫っていた前年覇者の橘田規だった。その橘田はじわりと追い上げに入り、最終ラウンドは71。通算2アンダーで先にホールアウトした。
佐藤は17番までに2つスコアを落として同じく通算2アンダーだった。橘田のスコアは耳に入っていた。18番パー5、左ラフからの3打目はグリーン奥のカラーまで転がった。
決めれば初優勝。その時の状況を『ゴルフ』の手記から引いてみたい。
「ピンまで約25フィートのフック・ライン。私はただラインにのせようとだけ心がけて打ったが、思い通りラインにのったとき“入るのではないか”と一瞬ひらめいた。ピンに当たってボールがカップにとび込んだときは、思わず二、三度とび上がってしまったのを記憶している」
ホームコースでつかんだプロ11年目の初優勝。林をはじめ我孫子一門の仲間から祝福される佐藤の顔には最高の笑みが浮かんでいた。
(文責・宮井善一)
プロフィル
佐藤精一(さとう・せいいち)1932(昭和7)年9月10日生まれ、東京都出身。18歳の時に我孫子GCにキャディーとして入り、23歳でプロとなる。61年に袖ヶ浦CCに移籍。66年に同CC開催の日本オープンで初優勝を飾った。その後、関東プロ、日本プロも制覇。2018年度日本プロゴルフ殿堂入り。
第31回日本オープンゴルフ選手権
順位 | 選手名 | Total | Round |
---|---|---|---|
1 | 佐藤 精一(袖ヶ浦) | 285 | = 70 69 73 73 |
2 T | 橘田 規(広野) 陳 清波(関東PGA) 宮本 省三(茨木) |
286 | = 71 72 72 71 = 70 71 73 72 = 71 73 70 72 |
5 T | 井岡 誠(鷹之台) 安田 春雄(関東PGA) 杉本 英世(関東PGA) 杉原 輝雄(関西PGA) |
287 | = 71 70 73 73 = 71 69 72 75 = 73 72 72 70 = 77 70 68 72 |
9 T | 内田 繁(関西PGA) 戸田 藤一郎(田辺) 能田 征二(城陽) |
288 | = 74 70 75 69 = 67 72 74 75 = 71 72 72 73 |
参加者数 142名(アマ51名)